的確なポジショニングと相手キーマンに仕事をさせない職人気質のボランチ、セザール・サンパイオ。
1995年、現役ブラジル代表として横浜フリューゲルスに入団。
ジーニョ、エバイールとともにブラジルトリオを獲得したフリューゲルスは、入団2年目の1996年には優勝争いを演じるチームに変貌する。
ブラジル代表として1998年フランスワールドカップに出場し大会第1号ゴールを決めるなど活躍し準優勝に貢献。
現役晩年は柏レイソル、サンフレッチェ広島でもプレーした。
サンパイオのJリーグ入り前
郊外の貧しい家庭に生まれ育ったが、サンパウロFCの下部組織に入るとすぐに頭角を現し、17歳の時に名門のサントスFCとプロ契約を結んだ。
同時期に1学年上の三浦知良もサントスFCとプロ契約を結ぶ。
サントスではドゥンガ(ジュビロ磐田)、パウリーニョ(ベルマーレ平塚)、ウーゴ・デレオン(東芝)らとともにプレー。
入団1年目から出場機会を得て、ボランチとしての経験を積んだ。
1990年にはリーグ戦18試合に出場。ブラジル全国選手権の最優秀選手に選出される。
まだ同年、ブラジル代表のファルカン監督によってフル代表に選出されるなど、サンパイオにとって飛躍の1年になった。
1991年に5年間在籍したサントスを離れ、SEパルメイラスに移籍。
パルメイラスではジーニョ、エバイール、エジムンド、ロベルト・カルロスらと黄金時代を築く。
サンパイオは攻守の要として活躍し、1993年から2年連続でブラジル全国選手権、サンパウロ州選手権を制覇した。
同年、コパアメリカで待望のブラジル代表でのデビューを飾り、主力として活躍。
1994年のアメリカワールドカップのブラジル代表に選出されるものとみられていたが、残念ながら本大会メンバーには選出されなかった。
1995年、ジーニョ、エバイールとともに横浜フリューゲルスへ移籍する。
サンパイオのJリーグ入り後
加入1年目の1995年3月18日の浦和レッズ戦でJリーグデビュー。
現役ブラジル代表ボランチのサンパイオ、司令塔ジーニョ、点取り屋エバイールの加入で優勝候補に挙げられるも、フリューゲルスの戦術であるゾーンプレスにフィットせず、1stステージでは14チーム中13位に終わる。
また同年はブラジル代表として招集され10試合に出場したため、途中でチームを離脱する事も多かった。
1996年、サンパイオはフリューゲルスで2年目のシーズンを迎えた。
この年、SEパルメイラスで指揮を務めたオタシリオが監督に就任すると、ジーニョ、エバイールとともに大車輪の活躍を見せる。
また、日本代表ボランチの山口素弘との安定したコンビネーションはリーグ屈指であった。
フリューゲルスは開幕戦から8連勝を飾り、リーグ前半を首位で折り返し、優勝も期待されたがアトランタ五輪後に再開した後半戦で勝ち点を伸ばしきれず3位に留まった。
この時期に一時ブラジル代表から遠ざかるも、ジュビロ磐田でプレーしていたブラジル代表ドゥンガからの推薦もあり、1997年には代表に返り咲き、コンフェデレーションズカップに出場。
1998年、サンパイオはフランスワールドカップのブラジル代表に選出される。
初戦スコットランド代表との試合で開始4分にヘディングでゴールを決める。このゴールは大会ファーストゴールであり多くの注目を集めた。
サンパイオは決勝トーナメントのチリ代表戦でも2ゴールを決め、勝利に貢献。
決勝で開催国のフランス代表に敗れたものの、準優勝の立役者となった。
同年、フリューゲルスではクラブ消滅の危機に立たされた時は自ら駅前で署名活動をするなどピッチ外でも献身的に戦った。
消滅が決まった後もチームに残り、天皇杯でも主力として活躍。フリューゲルスの天皇杯優勝を達成した後、ブラジルに帰国した。
ブラジルに帰国後は、1999年から古巣のパルメイラスで2シーズンプレー。
コパ・ド・ブラジル、コパ・リベルタドーレスでの優勝を果たす。
2001年はスペインに渡り、スペイン1部リーグのデポルティーボ・ラ・コルーニャへ移籍。
スペイン国王杯での優勝を経験するが、リーグ戦は10試合の出場に留まり1年でブラジルに帰国すると、その後はコリンチャンスでプレー。
2002年には柏レイソルからオファーを受け、Jリーグ復帰を果たす。
ボランチとして大きな期待を受けるも、1stステージでは7連敗を喫するなど14位に沈み、2ndステージは9位に終わり、助っ人としての役目を果たすことはできなかった。
2003年はJ2に降格したサンフレッチェ広島へ移籍。
ベテランながらリーグ戦41試合に出場し5得点をマークするなど献身的な活躍を見せ、広島のJ1昇格に貢献。
2004年もサンフレッチェでプレーしリーグ戦14試合に出場したが、7月末までの契約満了により退団。
ブラジルに帰国後はサンパウロFCで半年間だけプレーし、正式に現役を引退した。
サンパイオの引退後と現在
サンパイオは引退後、実業家となり元ブラジル代表リバウドとともにマネジメント会社を設立。
その後は解説者を務める傍ら、サンパウロ郊外でコマーシャルフットボールというクラブの会長として活動。
2022年にはブラジル代表のアシスタントコーチとしてカタールワールドカップに帯同した。
1995年に4年契約で横浜フリューゲルスに加入したセザール・サンパイオ。
現役セレソンの加入は大きな注目を集め、ワールドクラスの活躍を見せてくれた。
1998年、所属クラブであるフリューゲルスが消滅するというJリーグ最大の事件が起きる。
このような事態は現役セレソンにとっても初めてのことであった。
窮地に立たされながらも、サンパイオは街頭に立ち、他の選手と同様にチーム存続のために署名活動を行った。
残念ながらフリューゲルスは消滅してしまうが、サンパイオはチームの一員として戦い、最後の天皇杯制覇に大きく貢献した。
サンパイオは「人生において乗り越えられないのは死だけだ」と語る。
厳しい状況の中でも、最後まで希望を捨てずに戦ったフリューゲルスでの経験は、偉大なる元ブラジル代表戦士の中でも苦い思い出としてではなく、サポータと選手がひとつになれた「貴重な経験」として今も心に刻まれている。