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海本慶治の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第439回】

強靭なフィジカルを武器にセンターバックで活躍したDF海本慶治。

1995年にJFL・ヴィッセル神戸でキャリアをスタートさせ、2000年にはヴィッセル神戸所属選手として初の日本代表に選出された。

名古屋グランパス、アルビレックス新潟時代には実弟の海本幸治郎とともに兄弟選手として活躍。

現役晩年にはアルビレックス新潟に在籍し、最年長選手としてチームをまとめた。

海本慶治のJリーグ入り前


海本は1972年に大阪府吹田市に生まれた。

吹田市立桃山台小学校6年生の時にサッカーを始める。

吹田市立南千里中学校に進学しサッカー部で活躍。
攻撃的なポジションを担い、チームの中心として活躍した。

中学校卒業後、東海大学付属仰星高校へ進学。
同学年に松山大輔(サンフレッチェ広島)、2学年下に中村伸(サガン鳥栖)がいる。

高校に入学後、DFにコンバートされる。
高校3年次に選手権に出場するが、1回戦で赤羽邦彦(サンフレッチェ広島)のいる山梨県代表の帝京第三高等学校にPK戦の末に敗れている。
また、高校在学時にはジュニアユース日本代表に選出されている。

高校卒業後、東海大学へ進学。
同学年に鳥居塚伸人(コンサドーレ札幌)、1学年上に田坂和昭(ベルマーレ平塚)、川元正英(川崎フロンターレ)、1学年下に掛川誠(ヴィッセル神戸)、服部年宏(ジュビロ磐田)がいる。

東海大学在学中にJFLのヴィッセル神戸の入団テストを受け合格する。

入団した1995年のヴィッセル神戸のDFには江川重光松田浩和田昌裕、吉村寿洋らJリーグ経験者のベテランが起用されたため、出場機会は少なかった。

1996年、海本に出場機会はなかったが、ヴィッセル神戸がJFLで2位となりJリーグに昇格。
海本は引き続きヴィッセル神戸と契約を更新した。

海本慶治のJリーグ入り後

1997年5月7日1stステージ第7節ガンバ大阪戦でJリーグデビューを果たす。
内藤直樹とともにセンターバックを務め、リーグ戦20試合に出場した。

1998年は開幕戦からスタメン出場。ビングリーやアルベルト・トーマスとコンビを組んで活躍した。
1998年10月14日2ndステージ第10節ジェフユナイテッド市原戦では後半20分にJリーグ初ゴールをマークし、試合終了間際に2点目を決めた。
この試合は5-5のまま延長戦に突入するという激しい打ち合いとなったが、延長戦でも決着がつかずPK戦の末に神戸が勝利している。

この年の神戸は年間順位17位と低迷し、J1参入決定戦に回ることになった。
2回戦でコンサドーレ札幌と対戦したが、この試合で海本は決勝ゴールを決めた。
札幌とのJ1参入決定戦では2戦とも神戸が勝利し、翌年のJリーグ残留に大きく貢献した。

2000年6月にはトルシエ監督により日本代表に初招集される。
カサブランカで開催されたハッサン2世杯や、国立競技場で行われたJOMOCUPでのJリーグ外国人選抜との試合ではベンチ入りはできなかった。

しかしAFCアジアカップレバノン2000で再び招集され、10月20日のカタール戦で代表デビューを果たした。
中澤佑二、森岡隆三と3バックを形成したが、この試合の前半で2枚の警告を受け退場となった。
その後の試合では出場機会はなく、海本にとってこのカタール戦が最初で最後の代表戦となった。

2001年には名古屋グランパスへ移籍。
4バックのセンターを務め、古賀正絋とのコンビで活躍。

2003年には実弟の海本幸治郎も名古屋グランパスに加入し。兄弟で試合に出場した。

2005年には実弟の海本幸治郎とともにアルビレックス新潟へ移籍。
強靭なフィジカルを武器に、センターバックとして活躍。

2007年に左股関節の関節唇を損傷し、戦線を離脱し手術を受け長期リハビリのために出場機会はなかった。

2008年に復帰するも、リーグ戦9試合の出場に留まりこの年を持って現役を引退した。

海本慶治の引退後と現在

海本は引退後、2009年からアルビレックス新潟の下部組織で指導者としてのキャリアをスタート。

その後、セレッソ大阪U-18のコーチや大宮アルディージャのコーチに就任。

2013年にはS級ライセンスを取得。

2018年からは再びセレッソ大阪のユースのコーチに就任し、2019年年からはU-18監督を務めている。

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