安定感のあるサイドバックとして活躍したDF戸倉健一郎。
1994年、スター軍団のヴェルディ川崎に入団すると、左右どちらのサイドも守れる器用さで出場機会を得た。
特に守備の能力に秀でており、その才能はボランチとしても発揮された。
戸倉健一郎のJリーグ入り前
戸倉は1971年に、3人姉弟の末っ子として神奈川県に生まれた。
小学校の時にサッカーを始め、横浜市立汐見台中学校へ進学する。
中学校卒業後、神奈川県の名門である桐蔭学園高校に進学。
同学年に長谷部茂利(ヴェルディ川崎)、1学年下に林健太郎(ヴェルディ川崎)、福永泰(浦和レッズ)、2学年下に松川友明(ベルマーレ平塚)、栗原圭介(ヴェルディ川崎)、渡邉晋(ヴァンフォーレ甲府)がいた。
高校時代は、左サイドバックとして活躍。
李国秀監督のもとで才能が開花し、安定感のある守備で桐蔭の最終ラインを守った。。
後にヴェルディでともにプレーするボランチの長谷部茂利、スイーパーの林健太郎とともに高校サッカートップレベルのトライアングルを形成した。
高校3年次に背番号3を背負い、神奈川県代表として選手権に出場。
順当に勝ち進み、2回戦の岐阜工業戦ではゴールを決め、5-0での勝利に貢献。
ベスト4入りをかけた前橋商業戦では2-2の末にPK戦に突入するが、激闘の末に敗退している。
また、この年の桐蔭学園はインターハイと全日本ユースにも出場。全日本ユースでは3位に入る健闘を見せた。
そして戸倉は神奈川県選抜に選出され、北海道国体に出場し準優勝に貢献している。
高校卒業後、青山学院大学に進学。同学年に細川浩三(京都パープルサンガ)、1学年上に小屋禎(ジェフユナイテッド市原)、池田太(浦和レッズ)、1学年下に福永泰(浦和レッズ)、3学年下に三浦淳寛(横浜フリューゲルス)がいる。
大学2年次には全日本大学サッカー選手権大会に出場。
準決勝入りのかかった試合で大嶽直人、森山泰行、棚田伸らをようする順天堂大学にPK戦の末に敗れた。
また大学3年次には総理大臣杯でベスト8入りを果たした。
大学卒業後、ヴェルディ川崎へ入団する。同期入団に長谷部茂利がいる。
戸倉健一郎のJリーグ入り後
1994年5月4日、サントリーシリーズ第14節横浜マリノス戦でJリーグデビューを果たした。
その後、主に左のサイドバックでリーグ戦11試合に出場。
この年の年間優勝をかけたチャンピオンシップのサンフレッチェ広島戦には2試合とも出場できなかったが、加入年から優勝を経験することになった。
1995年は、ベテランの都並敏史、日本代表の中村忠、アトランタ五輪アジア最終予選を戦うU23代表に選出された菊池利三などとポジションを争うことになるが、中村がユーティリティプレーヤーであることや、戸倉自身も左右どちらもできるプレーヤーであったことからコンスタントに出場機会を得て、リーグ戦21試合に出場した。
1996年は開幕戦の京都パープルサンガ戦から先発で出場を続けるも、シーズン中盤から左サイドバックに中村が入ることが増え、リーグ戦7試合の出場に留まるとこの年を持ってヴェルディを退団。
1997年は出場機会を求め、JFLの川崎フロンターレへレンタル移籍。
同時期に加入した中西哲生、ベッチーニョ、桂秀樹、向島建、小泉淳嗣らとともに活躍を見せ、川崎はリーグ戦3位に入るが勝ち点1差でJリーグ昇格を逃した。
1998年はガンバ大阪へ移籍。
サイドバックだけでなくボランチとして出場する試合もあったが、出場機会は多くなくリーグ戦5試合出場に留まった。
1999年は京都サンガへ移籍。
開幕戦には先発で出場するが、その後は手島和希が起用されるようになり、リーグ戦10試合の出場で退団となった。
シーズン途中に出場機会を求めで古巣ヴェルディ川崎へ移籍するも、DF陣の層は厚く、2ndステージのマリノス戦、清水エスパルス戦の2試合出場で退団することになった。
その後、しばらく所属先が見つからなかったが、2001年に練習生を経てベルマーレ平塚へ入団。
サイドバックやボランチの出来るベテランプレーヤーとして重宝され、リーグ戦15試合に出場したがJ1昇格は果たせず、この年限りで退団。
戸倉は30歳で現役引退を表明した。
戸倉健一郎の引退後と現在
戸倉は引退後、母校である青山学院大学のコーチを務めている。
また、JFA公認B級ライセンスを取得し、調布FCのコーチとしても指導を行っている。