100メートル10秒8というJリーグ屈指のスピードをもったFW矢野マイケル。
10代のうちにドイツ留学を経験し、Jリーグではヴィッセル神戸、水戸ホーリーホック、サガン鳥栖でプレー。
陸上選手のベンジョンソンも認めるほどの快速の持ち主で、その潜在能力の高さから「未完の大器」として大きな期待をされた。
矢野マイケルのJリーグ入り前
矢野は1979年、ガーナに日本人の父とガーナ人の母の間に生まれた。
ガーナではボールではなく靴下や新聞紙を丸めたものでストリートサッカーをしていた。
8歳の時に来日したが、両親とは別々で暮らすことになり養護施設に入ることになった。
小学校時代から施設で一番身長が高く、身体能力も高かったが、外国人ということで壮絶ないじめにあう。
中学入学後、Jリーグが開幕。教師の勧めでサッカーを始めるとすぐに頭角を現す。
中学2年次にドイツにサッカー留学を経験。ブレーメン州に住みながら現地でサッカーを学んだ。
中学3年次に日本に戻り、サンフレッチェ広島ユース、清水エスパルスユース、名古屋グランパスユース、ジェフ市原ユースのテストに合格。その中で親の勧めもあり、清水エスパルスユースに所属した。
しかしエスパルスユースでは方向性の違いがあり1年で退団。
その後、エージェントの仲介でヴィッセル神戸に入団する。同期入団に島野学、鈴村拓也、石川隆司、中西雅裕、中村孝也がいる。
矢野マイケルのJリーグ入り後
快速FWとして期待を込められ入団した矢野は、バクスター監督のもとで1年目から出場機会を得る。
1997年5月24日1stステージ第10節ジェフ市原戦でベンチ入りを果たすと、83分に内藤潤と交代で出場しJリーグデビューを果たした。
その後もベンチ入りを続け、スーパーサブとして活躍。
第13節清水エスパルス戦ではジアードと交代で後半途中から出場し、Jリーグ初ゴールを決め4-2での勝利に貢献した。
1998年はスペイン人のベニート・フローロが監督に就任。
FWには韓国代表の金度勲、元日本代表の永島昭浩、若手の和多田充寿が起用され、矢野は出場機会が得られず、リーグ戦3試合の出場に留まり、この年限りで神戸を退団。
1年間のブランクを経て、2000年に水戸ホーリーホックへ入団。
背番号35を背負い、開幕戦の浦和レッズ戦から先発出場を果たす。シーズン序盤はコンスタントに出場するも、シーズン後半はベンチ入りが出来ない試合が続き、この年で水戸を退団。
2001年はサガン鳥栖へ移籍。
鳥栖ではMFとしてもプレー。第27節大宮アルディージャ戦では右ウイングとして先発し、前半8分にフリーキックからの好機を押し込んでゴールを挙げる。第35節水戸ホーリーホック戦にも同点ゴールを決め勝利に貢献した。
このシーズンはリーグ戦20試合に出場し、2ゴールを挙げたがこの年限りで鳥栖を退団した。
その後はイタリアに渡り、ACペルージャのトライアルを受け合格するも、入団はせずに帰国。Jリーグクラブへの入団を模索するも所属クラブは決まらず、24歳で現役を引退した。
矢野マイケルの引退後と現在
矢野は引退後、身体能力を生かして格闘家へ転身。
アマチュアの大会で経験を積み、プロへと転向するも病気の為、引退を余儀なくされる。
その後は養護施設に学んでいたピアノの経験を生かして音楽活動を開始。
現在は兄弟3人によるボーカルユニット「矢野ブラザーズ」のボーカルとして活動をしている。
矢野マイケルの半生は壮絶である。
ガーナでは外国人をねらった盗賊に襲われた。
日本の養護施設では壮絶ないじめに遭った。
救いはサッカーと音楽だった。
幸いなことに矢野はサッカーで早くから頭角を現し、早くから広い世界を知ることになった。
しかし彼をプロまでのし上げたはずの“個性”が、その後のサッカー選手としての矢野を苦しめることになる。
規律や集団意識を重んじる日本サッカーにおいて、その圧倒的な個性が仇となったのだ。
類まれなる身体能力を授かった矢野だったが、プロサッカー選手として生きづらさを感じるのにそう時間はかからなかった。
サッカーを離れた矢野が見つけた次のステージは、格闘技と音楽だったことは必然だっただろう。
何にも縛られない壮大なフィールドで、矢野は戦い続ける。