スピードを生かしたオーバーラップが持ち味のDF大森健作。
左足から繰り出されるパスも正確で、絶妙なクロスは攻撃のアクセントとなった。
FIFAワールドユース選手権のU-20日本代表としてブラジル戦やスペイン戦に出場し、日本のベスト8進出に貢献した。
Jリーグでも横浜マリノス、鹿島アントラーズ、京都サンガ、コンサドーレ札幌、セレッソ大阪、徳島ヴォルティスを渡り歩き、14年間現役でプレーした。
大森健作のJリーグ入り前
1つ上の兄の影響でサッカーを始め、西予市立野村中学校に進学にサッカー部で活躍した。
中学校卒業後、県内強豪の愛媛県立南宇和高等学校に進学。同学年に大木勉(サンフレッチェ広島)、1学年上に谷口圭(名古屋グランパス)、北内耕成(サガン鳥栖)、1学年下に吉村光示(サンフレッチェ広島)がいる。
大森が2年次に選手権に出場。ベスト8まで進出するが、浅利悟や室井市衛をようする武南高校に0-1で惜敗している。
高校3年次にも選手権に出場し、背番号4を背負い左サイドバックとして活躍。この年の南宇和は大木勉と友近聡朗という高校サッカートップクラスにFWがおり、優勝候補とも目されたが、2回戦でまたもや武南高校にPK戦の末に敗れた。
3年次にはインターハイと高円宮杯全日本ユースサッカー選手権にも出場し、高円宮杯では準決勝で読売SCに惜敗したがベスト4という成績を収めている。
高校卒業後、横浜マリノスに入団する。同期に川口能活や遠藤彰弘がいる。
大森健作のJリーグ入り後
1994年、高卒ルーキーながら6月15日の第22節浦和レッズ戦でベンチ入りをすると、延長戦でサパタと交代でJリーグ初出場を果たした。
1995年は、ワールドユース世界選手権(現U-20W杯)1995年カタール大会の代表メンバーに選出される。
メンバーには中田英寿、奥大介、松田直樹、森岡隆三、秋葉忠宏、鈴木和裕、下田崇、安永聡太郎、薮田光教、大木勉などそうそうたる面子が選出された。
大森は初戦のチリ戦以外はすべて出場。決勝トーナメントのブラジル戦では左サイドバックとして先発出場し、積極的な攻撃参加を見せるも1-2で敗れている。
1995年、1996年もマリノスでプレーするもレギュラーの獲得までは至らず、1997年に鹿島アントラーズへ移籍。
しかし鹿島には不動の左サイドバック相馬直樹がおり、リーグ戦1試合の出場に留まり1年で退団。
1998年は京都パープルサンガへ移籍。
ハンス・オフト監督の元、元日本代表の森保一・岩本輝雄・山田隆裕・黒崎久志らが加入し、しれつなポジション争いを繰り広げるも。開幕戦のジュビロ磐田戦からレギュラーとして出場。
本職の左サイドバックだけでなく、センターバックとしても出場した。
1999年は移籍してきた手島和希や佐藤尽、戸倉健一郎、鈴木健仁などが起用されるようになり、大森はリーグ戦3試合の出場に留まり。この年限りで京都を退団。
2000年、J2のコンサドーレ札幌へ移籍。
岡田武史監督の元、3バックの左として開幕戦から先発出場を果たす。
この年の札幌は野々村芳和、播戸竜二、高木琢也、伊藤優津樹などを獲得し各ポジションに主力となれる選手を補強した。
7月29日第25節浦和レッズ戦では、1-1で迎えた後半41分に相手ペナルティエリア前でパスカットをすると、そのまま左サイドをドリブルで持ち上がり、ペドロヴィッチをかわすとそのままダイナミックに左足でシュートを決めた。
上位争いをしていた浦和との試合でみせた値千金の大森のゴールに、約2万人集まった札幌厚別公園競技場は怒涛の盛り上がりを見せた。
コンサドーレはこのシーズンJ2で優勝し、J1昇格を果たしている。
札幌ではその後も主力として活躍し、2004年にオファーを受けたセレッソ大阪へレンタル移籍。リーグ戦5試合に出場した。
2005年はJ2の徳島ヴォルティスへ移籍。
ワールドユースを共に戦った秋葉忠宏とチームメイトとなった。
2005年、2006年はセンターバックやサイドバックとして起用されるも、2007年は出場機会がなく現役を引退した。
大森健作の引退後と現在
大森は現役引退後、札幌を拠点として活動。
指導者やコメンテーター、解説者として活躍をしている。
様々な分野で活躍している大森だが、JFAこころのプロジェクトの夢の教室の先生として積極的に北海道各地の学校を回り、夢先生として子どもたち一人ひとりと触れ合い、夢の大切さを教えている。
子どもたちにとって、様々な分野で活躍した大人と直接触れ合えるこの企画は本当に素晴らしいと思う。
2007年に始まったこのプロジェクトは、2007年当時は1年間で250回程度の開催だったが、2016年には10000回程度の開催を実施している。
夢を実現した大人から、夢を持つ子供たちへ。
夢のバトンは今日もどこかでつながっている。