的確な指示と粘り強いマンマークが持ち味の鹿島アントラーズを代表するセンターバック。
大野俊三。
1993年、Jリーグ初代ベストイレブンにも選出された大野は28歳でワールドカップアメリカ予選を戦う日本代表にも初選出された。
結局、ピッチに立つ機会は得られなかったが、ドーハの舞台で大野は献身的にサポートを続けた。
Jリーグ創世記を代表するセンターバック、大野俊三に迫る。
大野俊三のプロ入り前
大野は小学3年生でサッカーを始めたが、練習を重ねても技術が上達しないように感じ、小学5年の時にサッカーをやめてしまう。
毎日早く帰ってくる大野に母は『俊三、それでいいの?』と言ったという。
小学6年でサッカーを再度始めた。
くじけそうになると、サッカーを引退した今でもこの時のことを思い出すと大野は語っている。
高校はサッカーの強豪である千葉県習志野市にある習志野高校を選択。
高校3年間はサッカー部で活躍し、卒業後は住友金属(現鹿島アントラーズ)へ入社。
大野は住友金属工業で仕事をしながら、住友金属のサッカー部で好きなサッカーを続け、定年まで働こうと決めていた。
しかし、Jリーグ発足にともない同社を退職する形で26歳のときにプロ入りを決意することになる。
大野俊三のプロ入り後
大野は鹿島アントラーズとプロ契約を結ぶと1993年のJリーグ開幕年にはシーズンを通して35試合に出場。
小柄ながら屈強な相手FWと対等に渡り合う強さがあり、鹿島アントラーズのファーストステージではチームの優勝に貢献した。
また同年には、日本代表に初選出され、ドーハの悲劇を経験した一人としても知られた。
日本対イラク戦。
勝てば日本初めてのワールドカップ出場がかかった試合。
三浦知良と中山雅史の得点で2-1と勝ち越し、試合終了まであと残り10分となった時、オフト監督が選んだ交代選手は大野ではなく武田修宏だった。
しかし大野は腐らずにすぐにサポート役に回った。
ベンチで肩を組み、最後の最後まで日本を全力で応援した。
結局大野は後に日本代表に召集されることはなく、日本代表キャップ数は0のまま終わった。
しかし大野にとってドーハとは自身のサッカー人生の集大成であり、終わりのない夢であると後年語っている。
大野は1995年まで鹿島アントラーズでプレー。
その後は1996年に京都パープルサンガへ移籍し1シーズンプレーし引退を決意した。
大野俊三の引退後と現在
大野は引退後、京都サンガで4年間ジュニアユースやユース世代の育成を経験。
その後は居酒屋店主・茨城放送の解説者などを経て、現在は茨城県鹿嶋市のスポーツ施設・「鹿島ハイツスポーツプラザ 」の支配人を務めている。
一時は経営していた居酒屋が倒産し、多額の借金を抱え、建築業で倉庫の屋根や壁を貼る作業や、一般家庭の雨漏りの修復を手伝っていたこともあるという。
しかし大野は地道に働く姿が評価され、今はサッカー場に加え、野球場やテニスコート、体育館を備えた国内有数の多目的スポーツ施設の支配人として、日々忙しく過ごしている。
鹿島アントラーズサポーターからは、将来コーチや監督にならないのかと聞かれることもあるという。
「きっぱりと“やりません”と言います。なぜなら、今監督をやっているんです。ここで。支配人は監督業ですよ。チーム(会社)をどのようにまとめていったらいいのかを日々考えています。ひと声でやる気があるチームになるのかならないのか、ガラッと変わりますからね。楽しいですよ。」
波乱万丈な経験をした大野は今も鉄壁の守備でチームを守り続けている。