MF

岩瀬健の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第369回】

豊富な運動量とスピードのある突破力を武器に、浦和レッズや大宮アルディージャで活躍した岩瀬健。

1996年、オジェック監督の元でチャンスを掴み、才能を開花。キレのあるドリブル突破で浦和の攻撃を牽引した。

現役引退後はフットサルへ転向し、日本代表候補に選出される活躍を見せた。

指導者としても注目を集める岩瀬健に迫る。

岩瀬健のJリーグ入り前

岩瀬は1975年に群馬県に生まれた。

小学校1年生の時にサッカーを始め、千葉県に転居。松戸市立金ケ作中学校に入学する。

習志野高等学校進学後、サッカー部に所属。同学年に大塚真司(ジェフユナイテッド市原)、原祐俊(ジェフユナイテッド市原)がいた。
2学年下には廣山望(ジェフユナイテッド市原)、桜井啓(ベガルタ仙台)、小田島隆幸(モンテディオ山形)、御厨景(横浜マリノス)、福田健二(名古屋グランパス)がいた。

岩瀬は高校2年次に全国高校サッカー選手権大会に千葉県代表として出場。背番号16を背負い、千葉県予選の準決勝の専修大松戸戦ではゴールをマーク。
全国大会の2回戦南部農林戦でもゴールを決めている。
習志野は準決勝まで進むも、石塚啓次(ヴェルディ川崎)率いる山城に1-2で敗れている。

高校3年次には千葉県選抜として国体に出場。優勝はタレント揃いの静岡選抜(川口能活、山田暢久田中誠、山西尊裕、佐藤由起彦、伊藤卓、安永聡太郎西澤明訓など)だったが、千葉県選抜はベスト4入りを達成している。

高校卒業後、浦和レッズに入団する。

岩瀬健のJリーグ入り後

1994年に浦和レッズに入団した岩瀬だったが、入団1年目は1軍での出場機会はなかった。

1995年はサントリーシリーズからベンチ入りを続け、NICOSシリーズ 第1節横浜フリューゲルス戦で後半に杉山弘一と交代で出場しJリーグデビューを果たす。
この試合は福田正博トニーニョらが得点を重ね、6-0で大勝している。2年目のシーズンはリーグ戦9試合に出場した。

1996年は、オジェック監督の元で一気に出場機会が増える。第10節横浜フリューゲルス戦では背番号10を背負い先発出場。記念すべきJリーグ初ゴールを記録した。
第12節清水エスパルス戦では先制ゴールを決め、2-1での勝利に貢献している。
このシーズンはリーグ戦21試合に出場し3ゴールをマークした。

1997年はホルスト・ケッペル監督が指揮を執ったが、出場機会が与えられず、サテライトでの出場が続いた。
レッズは1stステージ9位、2ndステージ7位と上位に食い込めず、岩瀬も1年目以来の出場機会0でシーズンを終えた。

1998年もリーグ戦での出場はなく、シーズン途中に出場機会を求めてJFLの大宮アルディージャへ移籍。

1999年、ピム・ファーベーク監督の元で復活。 背番号8を背負い、開幕戦からスタメンで出場を続けた。第2節コンサドーレ札幌戦ではJ2初ゴールを記録した。
このシーズンはキャリアハイとなるリーグ戦32試合で5得点の記録を残した。岩瀬はピム・ファーベークの元でポジショナルプレーを学び、この経験は当時の日本サッカーでも異質なものだったと語っている。

2000年は出場機会を減らすも、2001年は習志野高校で共にプレーした大塚真司が加入したこともあり、息の合ったプレーを見せリーグ戦20試合に出場した。

しかし2002年はリーグ戦2試合に出場に留まり、このシーズン限りで退団。

その後はフットサルに転向し、PREDATOR FUTSAL CLUBでプレーし、2003年にはフットサル日本代表候補に選出される活躍を見せた。

岩瀬健の引退後と現在

岩瀬は引退後、2005年から古巣の浦和レッズで指導者として始動。

2013年からは柏レイソルで下部組織のコーチを務め、2018年にはシーズン終盤に監督も務めた。

その後は大分トリニータのコーチ、大宮アルディージャの監督を経て、2022年から再び大分トリニータでヘッドコーチを務めている。

岩瀬健は大分で指導者となってから、積極的にSNSでチームの練習メニューなどを映像付きで発信している。
プロの練習風景を見れることはサポーターだけでなく、サッカー関係者にとっても非常にプラスのことである。

岩瀬の「サッカー指導者は伝え方で決まる」という本も非常に読みごたえがあり、勉強になった。
サッカー指導者だけでなく、サッカーファンとしても一読の価値のある書籍であると感じる。


選手一覧