廣山望の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第1回】
時には右サイドを走り抜けるスピードスターとして。
時には最前線に構えるアタッカーとして。
貴重な存在として活躍した廣山望。
日本を飛び出して海外へ活躍の場を求めた廣山望はポルトガル1部リーグやフランス1部リーグでプレーする最初の日本人となった。
秀才としても知られる廣山望に迫る。
廣山望のプロ入り前
幼い頃から頭角を現し、習志野市立習志野高等学校では1995年に高校総体に優勝を経験。
名古屋グランパスやパラグアイ、スペインでも活躍した福田健二とは同級生なのは有名な話だ。
学生時代から秀才としても知られ、ジェフユナイテッド市原への入団と同時に千葉大学教育学部保健体育学科に推薦入学し初の「国立大Jリーガー」として話題となった。
廣山望のジェフでの活躍
大学とプロの両立を選択した廣山は、入団したジェフでも1年目から活躍する。
1年目の1996シーズンはリーグ戦21試合に出場。1得点。
U-20日本代表にも抜擢され、ベスト8に進出した「1997 FIFAワールドユース選手権」では4試合に出場した。
日の丸を背負った背番号8は開催地マレーシアで躍動した。
ジェフには5シーズン在籍しJ1リーグ戦120試合に出場。12ゴールを記録した。
廣山望の海外への移籍。動機は?
中田英寿のセリエAでの活躍を皮切りに若い侍たちが活躍の場を欧州へ求めていった。
廣山も例外ではなく、Jリーグでプレーし続けることに疑問を覚えていたが、海外を意識した理由は他の選手と少し違っていた。
「島国的な日本から飛び出して海外での日々を暮らしてみたい」
こういう思いが廣山にはあった。
この頃、廣山はU-21日本代表監督となったフィリップ・トルシエ氏に、シドニー五輪一次予選を最後に招集されずにいた。
また、2000年シーズン、廣山は数度の肉離れを起こし、ほとんど試合に出場できずにいた。
廣山は海外への移籍理由について下記のように述べている。
「もちろん、サッカーで成功したいという気持ちはありました。サッカー選手ですからね。だけど、それと同じくらい日本という鎖国的なところから飛び出して、世界で生活してみたいという欲求が僕にはあったんです。世界で起こっている出来事に、例えばイスラエルとパレスチナの問題とか非常に興味があったんです。でも、日本にいるとそういう問題がニュースで流れていても、テレビの中だけの話のように感じてしまう。そんな非現実的な感覚がありますよね。どんな大きなニュースでも他人事みたいに思えてしまう。これはまずいなと思った」
廣山は他の選手とは違う理由で日本を飛び出した。
廣山望は海外へ。そして日本代表へ初招集される
廣山が選択したのは欧州ではなく南米だった。
数チームからオファーを受け、2001年、廣山はジェフからパラグアイのセロ・ポルテーニョへとレンタル移籍をした。
セロでは右サイドハーフのレギュラーを獲得。
コパ・リベルタドーレスに日本人選手として初出場し、7試合で2得点2アシストを記録した。
そしてその活躍が認められ、2001年7月のキリンカップで当時の日本代表監督トルシエ氏に初招集を受ける。
残念ながらキリンカップでの出場は叶わなかったが2001年10月4日のセネガルとの国際親善試合で国際Aマッチデビュー。
日本代表では2試合に出場した。
2002シーズンにはポルトガルのブラガに移籍。
怪我の影響もあり、シーズンを通して8試合の出場にとどまった。
2003シーズンはフランスのモンペリエと契約。リーグ戦7試合、カップ戦1試合の出場にした。
廣山はポルトガル1部リーグ、フランス1部リーグでプレーする最初の日本人選手となった。
廣山望のJリーグへの復帰。そして晩年はアメリカへ
廣山は2004年に日本に帰国。Jリーグ復帰を果たした。
東京ヴェルディ、セレッソ大阪、ザスパ草津でプレイしたがどこのチームにおいても存在感を示した。
ユーティリティを発揮し、SBからMF、FWまで求められればどこでもこなした。
2011年シーズンからユナイテッドサッカーリーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズへ移籍した。
2年間プレーし2012年8月27日、自身のブログで現役生活からの引退を発表した。
35歳での引退だった。
廣山は晩年でのアメリカへの移籍について後にこう語っている。
「サッカーを長くやっていると、これまでの経験で答えが出せることが多くなってくる。アメリカでは、これまで僕がプロでやってきた常識を覆(くつがえ)してくれた。こういう経験が自分にとって必要だったんだなと」
「アメリカに来てみて、本当にリフレッシュできたというか、自分らしさを再認識した。サッカーでも、サッカー以外でも思っていた以上の手応えがあった。すごく納得がいった」
アメリカでのプレーは廣山に大いなる刺激と経験を与えた。
廣山望は引退後、指導者の道へ
<h2><strong>廣山望は引退後、指導者の道へ</strong></h2>
引退後の廣山は、指導者の道へ進んだ。
2013年から2014年にかけて、JOCのスポーツ指導者海外研修事業によってスペイン・バルセロナへ1年間留学。
現役時代に海外でプレーした経験を、今度は指導者としてさらに深めていった。
帰国後はJFAアカデミー福島で育成年代の指導に携わる。
2016年にはJFAのS級コーチライセンスを取得。
その後はU-15、U-16、U-17などの日本代表スタッフを歴任した。
2021年にはU-15日本代表監督に就任。
2023年からはU-16日本代表監督を務めた。
2025年にはU-17日本代表監督としてチームを率いた。
そして2026年、廣山は再びU-16日本代表監督を務めている。
現役時代に日本から海外へ飛び出し、南米、欧州、アメリカでプレーした経験。
その経験は、今度は日本の若い選手たちを育てるために生かされている。
振り返れば、廣山望のサッカー人生は常に「自分で道を切り開く」ものだった。
国立大学へ進学しながらJリーガーになる。
23歳で南米へ渡る。
日本人として初めてコパ・リベルタドーレスの舞台に立つ。
そしてポルトガル1部、フランス1部へ挑戦する。
さらに35歳でアメリカへ渡り、現役最後の2年間を過ごした。
誰かが作った道を歩いたのではない。
自分が面白いと思った方向へ進んだ。
だからこそ、そのキャリアには他の選手にはない面白さがある。
現役時代はスピードとドリブルで右サイドを駆け抜けた。
そして引退後は、その経験を次の世代へ伝える側になった。
2026年現在もU-16日本代表を率いる廣山望。
かつて世界を自分の目で見ようと日本を飛び出した男は、今度は日本サッカーの未来を担う選手たちを育てている。
「自分の知らない世界を見てみたい」。
その好奇心こそが、廣山望のサッカー人生をここまで大きく広げた原動力だったのではないだろうか。


