スピード溢れる突破力、絶妙なボールコントロールが持ち味のFW杉本倫治。
快速を生かして相手DFラインの裏をかいた2列目からの飛び出しで得点を奪うレフティ。
FW以外にもMFやDFとしてもプレー。U-22日本代表でも活躍し、ドイツ代表選ではゴールをマーク。
所属したセレッソ大阪ではプレースタイルが似ていることから、「ポスト森島寛晃」としても期待された。
杉本倫治のJリーグ入り前
杉本は1981年に奈良県天理市に生まれた。
天理市立柳本小学校に入学後にサッカーを始め、柳本FCに入団する。
天理南中学卒業後、耳成高等学校に入学。
高校在学時は、3年次に選手権の奈良県大会決勝で奈良育英高校と対戦するも惜敗。奈良育英には北本久仁衛(ヴィッセル神戸)、西嶋弘之(サンフレッチェ広島)がいた。
高校時代は全国出場の経験は無い。
高校卒業後、杉本の俊足と突破力を高く評価していたセレッソ大阪へ入団。
杉本倫治のJリーグ入り後
杉本は入団1年目の2000年7月29日、2ndステージ第7節鹿島アントラーズ戦で森島寛晃と2トップを組み、Jリーグ初出場を果たす。
その後もベンチ入りを続け、西澤明訓と交代で出場する機会が多かった。
第11節ジェフ市原戦では上村崇士と交代で後半終了間際に出場し、延長前半にJリーグ初ゴールとなる決勝点を決め1-0での勝利に貢献。
第12節川崎フロンターレ戦でも先制ゴールを決め、2試合連続ゴールをマークした。
2001年、U-20日本代表候補に選出。大柴健二や盛田剛平、岡山一成ら経験の豊富なFWが加入したこともあり、リーグ戦での出場機会は限られた。
出場する試合もMFでの出場がほとんどだったが、第15節ジェフ市原戦では岡山一成と交代で出場するとFWでプレーし得点を記録した。
またこの年のセレッソはリーグ戦30試合中5勝しか挙げられずJ2へ降格が決定していたが、終盤に監督がジョアン・カルロスから西村昭宏に交代すると息を吹き返し、連勝を続ける。
天皇杯では準決勝で浦和レッズと対戦し、杉本は決勝ゴールを決め、セレッソの決勝進出に大きく貢献した。決勝では清水エスパルスと対戦し、2-0とリードされながらも終盤に追いつく意地をみせたが清水のバロンに決められ3-2で敗れている。
2003年、杉本はU-22日本代表に選出され、カタール国際トーナメントに出場。
この大会には前田遼一(ジュビロ磐田)、佐藤寿人(セレッソ大阪)、矢野貴章(アルビレックス新潟)ら後の日本代表となる選手も選出されている。
カタール国際トーナメントグループリーグではタイ、スイス、ドイツ、カタールと同グループとなり、杉本はドイツ戦でMFとして先発出場。
前半10分に相手GKのクリアボールを拾うと、FW矢野貴章とのパス交換からゴール前に侵入し、シュートを決め先制ゴールを決めた。
その後も前田や矢野が追加点を奪い、4-0で勝利。杉本はこの試合のマンオブザマッチに選出されている。
グループリーグを突破した日本は決勝でエジプト代表と対戦。杉本は先発出場するも0-1で敗れて準優勝となった。
しかし、その後はセレッソでは出場機会がなく、アテネオリンピック出場のために出場機会を求めて2003年シーズン途中にヴァンフォーレ甲府へレンタル移籍。
しかし甲府でも出場機会は少なく、リーグ戦3試合の出場に留まるとこの年限りで甲府を退団、セレッソからも戦力外通告を受ける。
2004年にはJ2の横浜FCへ入団。
加入1年目はリトバルスキー監督の元、コンスタントに出場機会を得る。キャリアハイとなるリーグ戦28試合に出場するも、左ひざじん帯損傷を負い、戦列を離脱。
左足をかばうようにプレーを続けていたため、右足すねの疲労骨折も追ってしまい、長期離脱することになる。
2005年は出場機会がなく、この年限りで横浜FCを退団。合同トライアウトを受けるも所属先は決まらず現役引退を決意する。
杉本倫治の引退後と現在
杉本は現役引退後、妻の助言を受け、専門学校に通いながら勉強を続け、消防士に転職を果たす。
2011年、大阪市消防局に入って4年後には救命士の資格を取得している。
サッカー選手として3年半の時間を過ごしたセレッソ大阪とは現在も関係は繋がっており、セレッソ大阪から要請を受けて救命講習の担当をするなど、良好な関係は続いている。