小柄ながら豊富な運動量とゴール前での勝負強さを併せ持ったストライカー原竜太。
市立船橋高校時代にはチームのエースストライカーとして背番号10を背負い、高校選手権優勝に貢献。4得点を奪った活躍が評価され鳴り物入りで名古屋グランパスへ入団した。名古屋では主にスーパーサブとして試合を決定づける貴重な得点をマークした。
その後在籍したモンテディオ山形、湘南ベルマーレでは点取り屋としての本領を発揮しシーズン二桁得点を記録。
原竜太はJ1、J2リーグ通算で207試合に出場し43ゴールをマーク。ワンタッチで決めきれる得点能力の高さで記憶に残るゴールを量産した。
原竜太のJリーグ入り前
原は1981年東京都目黒区に生まれた。小学3年生の時に向原SCでサッカーを始める。小学6年生では東京選抜にも選ばれた。
中学時代は横浜フリューゲルスジュニアユースに所属。プロを意識し始めたのもこの頃からであった。
中学卒業後は市立船橋高校へ進学。同学年には羽田憲司、黒河貴矢がいる。1学年上には西紀寛、1学年下には中澤聡太がいた。原は3年次には背番号10を背負い、チームのエースストライカーとして活躍。全国高校サッカー選手権では1回戦の徳島商、3回戦の東福岡、そして決勝の鹿児島実業戦でゴールを決め、優勝に貢献した。国体では千葉県選抜に選出され佐藤寿人とツートップを組んだ。
この活躍を評価されて名古屋グランパスエイトからオファーを受け、卒業後の2000年に入団する。
原竜太のJリーグ入り後
原はルーキーイヤーから試合に出場する。5月6日1stステージ第11節東京ヴェルディ戦で後半途中から岡山哲也に代わってJリーグ初出場。11月18日の2ndステージ第13節ガンバ大阪戦では前半21分に待望のJリーグ初ゴールをマークした。この年は主にスーパーサブとして起用されリーグ戦12試合に出場し2ゴールを挙げた。
翌年の2001年はサテライトリーグでは好成績を残したがトップチームでは2試合のみの出場に留まった。
2002年、同じポジションにイヴィツァ・ヴァスティッチやウェズレイがおり、出場機会も限られたが18試合で5得点を挙げる。原がこのシーズンでゴールを決めた5試合は4勝1分であり、すべて試合の勝敗に関わる貴重なゴールであった。
その活躍が認められ、2003年には山本昌邦が監督を務めるアテネオリンピックに向けたU-22日本代表にも選出。同年のカタール国際大会、エジプト国際大会などに出場を果たした。
しかし名古屋では出場機会が減少。より多くの出場機会を求め2004年に京都パープルサンガへレンタル移籍をするが京都ではリーグ戦12試合の出場で無得点に終わった。
翌年にはモンテディオ山形へレンタル移籍、同年6月に完全移籍となる。加入1年目は開幕戦から3試合連続ゴールを決めるなどチームのエースとして活躍。リーグ戦36試合に出場しチーム最多となる12ゴールを記録した。2006年もスーパーサブとして27試合に出場し5ゴールをマークしたがこの年で山形を退団。
2007年には湘南ベルマーレへ移籍。
ベルマーレでは石原直樹と2トップでレギュラーを張りゴールを量産。1年目は自身2度目となる二桁得点を記録した。豊富な運動量を武器に前線から積極的に仕掛ける事ができるタイプの似た2人は息の合ったプレーを見せた。翌年も主力としてプレーするも2009年は出場機会が減少。契約満了が発表された。
Jリーグ合同トライアウトに参加するなど現役続行かと思われたが2011年1月、自身のブログで引退を発表した。
原竜太の引退後と現在
原竜太は引退後、不動産事業を営む株式会社ESTAに就職。2019年6月より代表取締役に就任している。
1999年の全国高校サッカー選手権。松井大輔(鹿児島実業)、高松大樹(多々良学園)など多くのスター選手を輩出したこの年の大会で紛れもなくスターは原竜太だった。スピードあるドリブル突破から得点を重ね、決勝では松井大輔や那須大亮、田原豊がいる鹿児島実業から決勝点を奪い取った。右サイドからの絶妙なクロスをヘディングで押し込んだ魂のゴールだった。
その後、期待され名古屋グランパスへ入団するもレギュラー定着とはいかずその後はJ2クラブを渡り歩き28歳の若さで引退をした。選手権での活躍を知る人からするとJリーグでの原竜太の活躍は物足りないかもしれない。
しかし原竜太はスぺ―スを生むフリーランニングや前線からの激しいプレスバックなどゴール以外の仕事も積極的に行ってチームに貢献した。個人の記録に残らずともその献身的な働きはサポーターの心に残り続ける。