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中澤聡太の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第335回】

身長188センチの高さと正確なフィードが持ち味のセンターバック・中澤聡太。

市立船橋高校時代に選手権で優勝。プロ入り後もU-20日本代表に選出され、FIFAワールドユース選手権に出場するなど、将来を嘱望されたポテンシャルの高い選手であったが、相次ぐ怪我で本領を発揮できずにいた。

しかし、2007年から所属したガンバ大阪では、日本代表の水本裕貴、元日本代表の高木和道、元韓国代表のパク・ドンヒョクとの激しい定位置争いを制し、守備を安定させるなど活躍し、ガンバでは2度の天皇杯、ナビスコカップを制覇した。

中澤聡太は、チームを盛り上げるムードーメーカーとしても知られ、2008年にはサポーターが選ぶMVPを受賞するなど、プレー以外でも貢献度の高い選手であった。

中澤聡太のJリーグ入り前


中澤聡太は、1982年に東京都三鷹市に生まれた。

間もなく引っ越した埼玉県朝霞市でサッカーと出会う。小学校6年時には身長が169センチに伸びており、朝志ヶ丘SCでレギュラーとして活躍する。

中学入学後、浦和レッズジュニアユースに加入。しかし、周囲のレベルは高く、最初はBチームにすら入れなかったという。しかし、週に3-4回をレッズで過ごし、練習のない日は中学のサッカー部で練習を重ねた中澤は、2年時にレギュラーの座を掴む。

ユース昇格が確実視されていたが、中学3年時に、浦和ユースと東福岡高校の試合で、東福岡高校が0-7で圧勝した試合を観たことがきっかけで高校サッカーへの道を志す。

中学卒業後、千葉県の市立船橋高校へ進学。

2年生時には、後に鹿島アントラーズへ入団する羽田憲司とセンターバックを組み、高校選手権に出場。決勝で鹿児島実業と対戦し、自らゴールを決め、選手権での優勝を果たした。

高校3年時にはユース代表に選出され、アジアユースに出場。また、柏レイソルの強化指定選手として練習に参加している。

2001年、高校卒業後に柏レイソルへ入団する。

中澤聡太のJリーグ入り後

中澤は、2001年11月24日の2ndステージ第15節清水エスパルス戦で、途中出場しJリーグデビューを飾る。

同年にはワールドユースU20日本代表に選出され、翌年のレギュラー獲得を期待されるが、2002年のジェフとのリザーブ戦で中足骨を骨折。リハビリに励むも、3年目には同個所の骨折、ようやく復帰が見えてきた頃には逆足の骨折を経験し、ほとんど試合に出れないシーズンを送る。

2006年にFC東京にレンタル移籍を経験するが2試合に出場に留まる。

2007年からはガンバ大阪へレンタル移籍。西野朗監督から声を掛けられて実現したものだった。

ガンバでは2008年からレギュラーを獲得。山口智と不動のセンターバックを形成し、天皇杯、ACL優勝に貢献した。

ガンバの2008年シーズンは、それまでポゼッションに偏っていた戦術から守備の安定性を目指し、リトリート型に変更。結果的に、ディフェンシブゾーンへ出されるパス数を圧倒的に減らすことに成功し、守備の安定に繋がった。中澤は、ゲームキャプテンの山口智の相棒として、高さを生かしたプレーや、前線への正確なフィードで勝利に大きく貢献した。

この年、アジア最優秀選手にノミネートされた遠藤保仁を押しのけ、サポーターから選出されるシーズンMVPを受賞している。

2012年までガンバでプレーした後、2013年からは川崎フロンターレへ移籍し、井川祐輔、伊藤宏樹らと激しいポジション争いを演じた。

しかし、怪我の影響もあり、先発出場の機会は限られ、守備固めとしての途中出場の機会が増えた。

2015年からはセレッソ大阪に移籍。加入シーズンはリーグ戦9試合に出場したが、2016年は序盤で3試合に途中出場したのみで、その後の出場機会は得られず、このシーズン限りで現役を引退した。

中澤聡太の引退後と現在

中澤聡太は引退後、2017年から古巣のガンバ大阪でスカウトを担当した。

2018年を持ってガンバを離れ、2019年からは、ジャパンスポーツプロモーションに所属し、代理人として活動を始めている。

明るい性格で知られ、チームの雰囲気が悪い時にも、声を出して笑顔で盛り上げていた中澤聡太。しかし現役時代の16年間の戦績を見ると、輝かしいものばかりではなく、度重なる怪我や、J2降格など、試練のほうが多かったように思う。

しかし、栄光ばかりでなく、様々な苦い経験をしたからこそ、これからプロになる選手にも、ピークを迎えた選手にも、心から伝えられる“リアルな言葉”があるのではないだろうか。

代理人・中澤聡太としての戦いはどのようなものになっていくのか。セカンドステージはまだ始まったばかりだ。

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