勝利への熱い情熱と冷静な判断力を兼ねそろえたGK山岸範宏。
浦和レッズでは都築龍太とハイレベルなポジション争いを繰り広げ数々のタイトル獲得に貢献。
2006年にはオシム監督により日本代表に選出されるほどの実力派GK。
2014年から移籍したモンテディオ山形ではキャプテンとしてチームを牽引。ジュビロ磐田とのプレーオフ準決勝では後半アディショナルタイムに劇的なヘディングシュートを決め勝利を手に取る。決勝でも見事な完封勝利でJ1昇格を決め、一躍時の人となった。
山岸範宏のJリーグ入り前
山岸範宏は1978年に埼玉県大里郡大里町(現熊谷市)に生まれた。9歳の時にサッカーを始め、市田小学校サッカー少年団に所属。小学校4年生の時にGKを始めた。祖父と父親の影響で小学校1年生から6年生まで柔道も続けた。
大里中学校中学サッカー部で活躍後、埼玉県立熊谷高等学校へ進学、高校では全国大会には出場できず国体のメンバーに選出されることもなかった。
高校卒業後、山岸は中京大学へ進学。 ここで山岸は頭角を現し大学3年時にユニバーシアード日本代表に選出。スペインで行われた第20回ユニバーシアード・マヨルカ大会では背番号1を背負い日本の優勝に貢献した。3年時には名古屋グランパスからオファーが届くまでになった。2000年には全日本大学サッカー選手権大会で優勝し、ベストGKに選ばれた。この優勝は関東、関西以外の大学で初の日本一になるという快挙となった。
大学卒業時、山岸は数あるオファーの中から地元の浦和レッズへの入団を選択した。
山岸範宏のJリーグ入り後
浦和レッズに入団後、1年目は出場機会が無かったものの2年目の3月16日清水エスパルス戦でJリーグデビューを飾るとそのままレギュラーを掴む。この年はリーグ戦26試合に出場。
しかし2003年に都築龍太がガンバ大阪から加入すると激しいポジション争いが始まった。2004年は1stステージは控えだったが、2ndステージ途中から正GKの座を取り戻し、レッズ初のステージ優勝に貢献。 2005年は怪我の影響もありリーグ戦1試合の出場に留まるも2006年には正GKとしてリーグ優勝に貢献。この年オシム監督により日本代表に選出されるが代表での出場機会は無かった。
2007年、2008年は都築龍太が正GKとして起用されベンチを温める日々が続いたが、山岸は土田尚史GKコーチの元、厳しいトレーニングを欠かすことはなかった。 2009年に再び正GKに返り咲き2010年は自身初となるリーグ戦全試合フル出場を果たした。
2011年からは加藤順大の成長もありポジションを譲る試合が続いた。2014年には西川周作の加入によりベンチ入りすら厳しい状態となりシーズン途中に移籍を決意。
2016年6月にJ2のモンテディオ山形へ移籍。
山形ではキャプテンとしてもチームを引っ張り、クラブ史上初の天皇杯決勝進出・J1昇格プレーオフ出場権獲得に貢献。そのプレーオフ準決勝の磐田戦では、後半アディショナルタイムにコーナーキックから勝ち越し点となるヘディングシュートを決め、プロ初ゴールを挙げた。このゴールはGKとしては史上初となるヘディングでのゴールとなり多くのメディアで取り上げられた。 山岸の活躍もあり、山形はJ1へ昇格するも2015年、チームはJ1最下位となり1年でJ2降格となってしまった。
2017年はJ3のギラヴァンツ北九州へ移籍。
北九州では出場機会は少なかったが、最年長のベテラン選手としてチームを牽引。しかし2018年はリーグ戦で僅か6勝しか挙げることができず最下位に沈んだ。このシーズンをもって山岸は現役を引退。18年のプロ生活に終止符を打った。
山岸範宏の引退後と現在
山岸は引退後、2019年2月よりJFAアカデミー福島の男子U-18GKコーチに就任している。
山岸といえばやはりどうしても山形時代のヘディングでのゴールの印象が強い。あの熱い魂の込められたヘディングでのゴールを見て心が揺さぶられた人は多いだろう。キャプテンとしてどうしてもJ1へ昇格しなければいけなかった山岸の思いがあのゴールには反映されている。
練習の虫として知られ、自分に妥協さることはなかった。質の高い練習を続けることがチームの勝利に繋がるという事を信じて毎日ハードなトレーニングを積んだ。それは浦和レッズで正GKとしてタイトル獲得に貢献しているときも試合に出られない年も、J2でもJ3でも、40歳で引退するまで続いた。
かつて山の神と拝められた実力派は指導者の道を歩み始めている。その熱い情熱と確かな技術を若き侍たちへ継承し続ける。