縦への力強い突破と強靭な足腰から放たれるキャノンシュートが武器の眞中靖夫。
鹿島アントラーズ時代には途中出場から限られた時間で結果を出すスーパーサブとして活躍し黄金期を支えた。
セレッソ大阪時代には途中出場から僅か3分間でハットトリックを達成。この記録はJリーグで史上最短記録となり未だに破られていない。
スーパーサブの仕事人、眞中靖夫に迫る。
眞中靖夫のプロ入り前
後にジェフ市原や横浜FCでプレーをする眞中幹夫は実兄である。
岩井第一小学校の時に岩井FCジュニアに所属しサッカーを始める。
岩井中学校卒業後、岩井西高等学校へ入学。
高校時代にはFWとして県選抜メンバーに選ばれるなどしたが全国的には無名の選手だった。
1989年、現在の鹿島アントラーズの前身、住友金属サッカー部に入団。
チームメイトにはジーコ、石井正忠、賀谷英司、大野俊三、手倉森誠、手倉森浩らがいた。
住友金属は2部リーグに所属しており、高卒ルーキーの真中にも出場機会があり加入初年度は9試合で2ゴールを挙げた。
加入3年目にはリーグ戦21試合に出場し9ゴールを挙げFWとして結果を出した。
1992年、Jリーグ参入の為に住友金属サッカーは鹿島アントラーズへ改称。眞中もプロ契約となりJリーガーとなった。
眞中靖夫のプロ入り後
1991-1992シーズンの活躍により鹿島アントラーズでもFWの柱として期待されたが、FWにはブラジルからアルシンド、本田技研から黒崎久志、長谷川祥之が加入した為に出場は限られた。
必然的に眞中は短い時間での結果を求められる事となったが見事にその期待に応えていく。
Jリーグ開幕初年度はリーグ戦12試合に出場。2ndステージ第5節の横浜フリューゲルス戦でJリーグ初ゴールを挙げると、この年3ゴールを決める。
1996年の優勝がかかった首位攻防戦の名古屋グランパス戦では1点目と2点目を眞中の強烈なシュートが決まりアントラーズが勝利し初のJリーグ王者となった。
眞中はアントラーズでスーパーサブとしての地位を確立させ、黒崎久志や長谷川祥之、柳沢敦らが日本代表の試合で不在時はスタートから出場し見事にその穴を埋める活躍を見せた。
1998年にもリーグ戦21試合に出場し6得点と結果を出すもこの年で鹿島アントラーズを退団。
翌年にセレッソ大阪へ入団する。
セレッソ大阪に加入した1999年開幕戦ではFW黄善洪、西澤明訓の下に位置するポジションでスタメン出場。森島寛晃、ノジュンユンらと攻撃的なセレッソの中盤を支えた。
セレッソではFWだけでなく、MFやサイドバックとしてもプレー。
身長は170センチと小柄ながらも、縦への突破と強烈なシュートを武器にゴールを量産した。
2001年1stステージ第14節柏レイソル戦で1点ビハインドで迎えた68分からピッチに立つと、72分、73分、75分と立て続けにゴールを奪い、圧巻のゴールラッシュを見せつけて3-2の逆転勝利の立役者となる。
開始後3分でハットトリックという偉業を成し遂げ、この途中出場でのハットトリック最短記録は現在でも破られていない。
2002年にはJ2での戦いとなったが、シーズン開幕前に大阪市心斎橋の路上で選手主催の食事会の帰りに2人組みの男と口論になり暴行を受け、頭蓋骨骨折の大怪我を負ってしまう。
選手生命が心配されたが見事復活を果たしこのシーズンキャリアハイとなるリーグ戦13得点を記録した。
2003年シーズン途中にサンフレッチェ広島へ移籍。
サンフレッチェではマルセロ、大木勉、茂木弘人、中山元気らとレギュラーを争う。
シーズン途中の加入ながら第34節横浜FC戦で途中出場でゴールを挙げると第36節大宮アルディージャ戦でも決め、勝利に貢献。サンフレッチェのJ1昇格に貢献した。
2004年、J2の横浜FCへ移籍。
途中出場で実兄の真中幹夫と共に兄弟でピッチに立つなど話題となったが、リーグ戦13試合の出場、1得点に留まりこのシーズン限りで現役を引退した。
眞中靖夫の引退後と現在
眞中は引退後、セレッソ大阪のスクールコーチに就任。
大阪学芸高等学校女子サッカー部や神戸国際大学サッカー部を歴任。
2018年からはJFLのラインメール青森でアカデミーダイレクターを務めている。
眞中はJリーグで途中出場115試合で25得点を記録している。
これは元日本代表の播戸竜二、森山泰行の27得点に次ぐ史上3位の数字だ。この数字からも如何に眞中の得点率が高かったかが分かる。
セレッソ時代に同僚だった佐藤寿人は眞中のプレースタイルに影響を受けたと語っており、佐藤はその後日本を代表するストライカーとなった。
限られた時間の中で結果を出し続けた眞中靖夫。彼をアントラーズ史上最高のスーパーサブと呼ぶ声は少なくない。