超攻撃型右サイドバック、名良橋晃。
味方にピンポイントで合わせる正確なクロスだけでなくミドルサードからダイアゴナルに切り込んできてからのミドルシュート、緩急を生かした縦への突破など脅威となる武器を多く持つ。
ベルマーレ時代は左サイドバックの岩本輝雄と共に両翼からの攻撃を盛り上げ、鹿島アントラーズ時代は左サイドバックの相馬直樹と鹿島黄金期を支えた。
日本代表としても38試合出場のキャリアを誇り、フランスワールドカップへ出場。
果敢に攻め上がる名良橋晃のスピードと攻撃力は日本代表の貴重なオプションのひとつとなった。
名良橋晃のプロ入り前
キャプテン翼を読んだことがきっかけで作新小学校の時にサッカーを始める。
天戸中学校入学後、サッカー部に所属。 足の速さを買われ、FWでプレーをしていた。
中学校卒業後、千葉英和高校へ進学。ここで名良橋は千葉県選抜に選出され国体に出場するがポジションはFWではなく中盤だった。
千葉英和高等学校を卒業後、1990年に日本サッカーリーグ1部のフジタ(現:湘南ベルマーレ)に加入。
そして同時期に日本ユースの代表に選出。当時の監督である永井良和にウィングバック的なボジションで使いたいと言われてサイドバックにコンバートされる。
名良橋晃はFWでプレーしていた経験を生かし、スピードある攻撃的サイドバックとして頭角を現していく。
このコンバートがその後の名良橋晃のサッカー人生において大きなターニングポイントとなった。
1990年、名良橋晃はフジタで2年目から出場の機会を与えられ、日本ユース代表としてもバルセロナオリンピック出場を目指す。
この時のユース代表は主将の澤登正朗を始め、相馬直樹、名良橋晃、小村徳男、名波浩、永井秀樹、藤田俊哉、三浦文丈、神野卓哉など、のちにJリーグやフル代表で活躍する選手が数多く含まれた。
名良橋は日本ユース代表として試合に出場する際は主に左サイドバックを任され、不動のレギュラーとして活躍するも惜しくも日本はオリンピック出場を逃した。
フジタでは入団3年目に日本サッカーリーグ2部のベストイレブンに選出。名良橋晃はピッタ、ジーコに次ぐアシストランキング3位に入る10アシストを記録しフジタの1部昇格に貢献した。
翌年は8アシストを記録するしサイドバックながらアシストランキング1位となり、その翌年の1993年はベストイレブンに選出される活躍を見せ、フジタの年間優勝の原動力となった。
フジタはベルマーレ平塚に改称し、ジュビロ磐田と共に1994年のJリーグ入りを決めた。
名良橋晃のプロ入り後
1994年3月12日、ヴェルディ川崎戦でJリーグデビューを果たす。
左サイドバックの岩本輝雄と共に、攻撃型サイドバックとしてチームを牽引した。
この年の9月にファルカン監督により日本代表に初選出され代表デビューを飾る。
ベルマーレはJFL時代、両サイドバックが攻撃に連動し得点を量産したが名良橋と岩本が攻め上がった際のスペースを徹底的に狙われ失点を重ねてしまう。ベルマーレはJリーグ初年度の1stステージは12チーム中11位と低迷した。
しかし監督であるニカノールはベルマーレの絶対的武器である両サイドバックをキーマンとした攻撃的フォーメーションを採用し続ける。
左サイドバックの岩本輝雄のポジションを一つ上げ、後ろに公文裕明を入れ、バランスを取るフォーメーションで2ndステージは2位になる躍進を見せた。
1997年、Jリーグで優勝を争うチームに所属する必要があると考えた名良橋晃は鹿島アントラーズに移籍。
鹿島には名良橋が尊敬する右サイドバックの名手、ジョルジーニョ(鹿島ではボランチとしてプレイ)が在籍しており、それが移籍の決め手になった。
鹿島移籍後は日本代表にも久しぶりに復帰を果たし、鹿島の左サイドバック相馬直樹とともにフランスワールドカップに出場。
1999年には憧れのジョルジーニョが背負っていた背番号2を受け継ぐ。
以降、鹿島では不動の右サイドバックとし黄金期を支える。
Jリーグ1年目の1994年から2003年まで10シーズン連続で得点を記録するなど、サイドバックとしての攻撃力はJリーグ屈指であった。
日本代表としてフランスワールドカップ後に監督がフィリップ・トルシエに代わると名良橋は招集を受けなくなるが2002年にジーコが代表監督に就任すると日本代表に復帰。
2003年のコンフェデレーションズカップにも出場するがグループリーグ敗退後にDF陣の総入替もありこの年以降代表に選出される事はなかった。
鹿島では2004年から出場機会が減少し、2007年に古巣であるJ2の湘南ベルマーレへ移籍。
しかしリーグ戦1試合の出場に留まり同年7月をもって退団し引退を表明した。
名良橋晃の引退後と現在
名良橋晃は引退後、2009年度よりSC相模原で、ジュニアユース総監督を務めている。
その他にもテレビでのバラエティ番組やサッカー解説などメディアでの活動も多い。
鹿島アントラーズの背番号2はジョルジーニョから始まった。
ジョルジーニョ退団時、鹿島から背番号2を背負ってほしいと言われた名良橋晃は驚きと喜びと同時に、その番号にふさわしい選手になれるのかという怖さがあったと語っている。
しかし名良橋晃はそのプレッシャーを跳ね除け鹿島アントラーズの歴史に名を残す名選手となった。
名良橋が2006年に鹿島を去る際に、その背番号を新人である内田篤人へ譲った。
内田篤人もまた鹿島アントラーズと日本を代表する右サイドバックとなっている。
そして現在、鹿島アントラーズで右サイドバックを担当する日本代表の安西幸輝はいつか憧れの内田篤人の背番号2をつけたいと語っている。
ジョルジーニョ、名良橋晃、内田篤人、そして・・・。
鹿島アントラーズ背番号2の系譜は偉大な先輩の想いと共に今後も受け継がれていく。