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リネカーの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第131回】

1986年ワールドカップ得点王、プレミアリーグで3度の得点王に輝いたリネカー。

1993年、華々しく開幕したJリーグだが特に鹿島アントラーズのジーコ、ジェフ市原のリトバルスキー、そして名古屋グランパスエイトのリネカーの3人は「ビック3」と呼ばれ、フットボールファンのみならず多くの日本国民に注目され、誕生したばかりのJリーグを盛り上げた。

しかしプレミアリーグで145得点、スペインリーグで47得点、イングランド代表では48得点を挙げた生粋のストライカーであるリネカーも、Jリーグには順応出来ずに2シーズンで4得点というあまりにも寂しすぎる成績で現役を終える事になった。

名古屋サポーターの大きな期待を背負い、自身のキャリアの最終章にJリーグでのプレーを選択したがその輝かしい功績に彩りを添えることは出来なかった。

リネカーのJリーグ入り前


リネカーは1960年にイングランドのレスターに生まれた。

青果商を営む両親の元に生まれ、少年時代はサッカークリケットに取り組んでおり、クリケットでは学校のキャプテンを担う程であった。

サッカーでは地元のプロチームであるレスターシティに憧れ、7歳の頃から家族でシーズンチケットを買って試合に通う。

1974年、リネカーが14歳の時に憧れだったレスターシティのユースに入団。

1978年、レスターシティのトップチームに昇格しプロ契約を結ぶとルーキーイヤーは7試合に登板し1得点を挙げた。

1981年、リネカーは21歳の時にレスターシティのエースに抜擢されシーズン39試合で17得点を挙げる。

レスターは2部リーグと1部リーグを行き来していたが、そのチーム状況の中でもリネカーは常に結果を出し続け、毎シーズン2桁得点を記録するようになる。

1984年には24得点を挙げ、プレミアリーグ得点王に輝くと翌年にはエバートンに移籍し30得点を挙げ2シーズン連続で得点王のタイトルを獲得した。

1984年5月26日のスコットランド戦にてイングランド代表に初招集を受ける。

以降、代表に定着し1986年のメキシコワールドカップでは6得点を挙げて得点王に輝いた。

アルゼンチンの英雄であるディエゴ・マラドーナの5得点、ブラジルのエースであるカレカの5得点を超えて獲得したことで大きな注目を浴びた。

1986年シーズンからはスペインのバルセロナへ移籍。

後に横浜フリューゲルスでプレーをするFWアマリージャや横浜マリノスでプレーをするFWサリナスらと活躍。

リネカーはバルセロナで国王杯などのタイトル獲得に貢献。3シーズンの在籍で44得点をマークした。

1989年、プレミアリーグのトッテナムに移籍すると24得点を挙げ3度となる得点王を獲得。

リネカーは後のインタビューで「得点を取れば取るほどゴールへの欲求が高まっていく。」と語っており、その言葉通りゴールへの気迫と執着は凄まじくピッチ外では温厚な表情を見せるリネカーもピッチでは鬼気迫る表情で戦っていた。

インタビューで「ストライカーの人生は99%が苛立ちである。」とも語っている。

1993年、Jリーグ開幕を控える名古屋グランパスエイトからオファーが届く。

年俸は破格の2億6500万円と言われ、リネカーにはジャパンマネーでの移籍ではないかとイングランドサポーターから非難の声も上がった。

しかしリネカー自身はJリーグでのプレーは新しい挑戦であると捉え、Jリーグでのプレーを決断する。

リネカーのJリーグ入り後

超大物外国人ストライカーのJリーグ入りは日本だけでなく世界各国のメディアから大々的に報道された。

プレミアリーグとの環境の違いに戸惑いながらも、リネカーはチームメイトのパスのタイミングを身体で覚えていった。

CMやスポーツ番組にも積極的に出演し、開幕を控えるJリーグの目玉選手として注目を集めていった。

Jリーグ開幕前に行われたイタリアセリエAのラツィオとの親善試合ではコーナーキックから絶妙なヘディングでゴールを決める。

その3日後にはブラジルの名門グレミオを相手に2得点を奪うなど好調をアピール。ゴール前の素早い動き出しでワンタッチで決めるなど、リネカーの持ち味が発揮されJリーグ開幕を前にコンディションも良好だと思われた。

5月に行われたJリーグ開幕前。対戦相手はジーコ擁する鹿島アントラーズだった。

リネカーは背番号10をつけ、FWとして先発出場を果たし、1度ゴールネットを揺らすもののオフサイドを取られ、初戦はノーゴールに終わる。対するジーコはハットトリックの大活躍を見せた。

5月26日の横浜フリューゲルス戦で待望の初ゴールをヘディングで決めるが、このゴールがこのシーズン最初で最後のゴールとなった。

その後は怪我の影響もあり後半シーズンは殆ど出場出来ず、7試合に出場1ゴールで開幕年を終えた。

エースを不調で欠いた名古屋グランパスはサントリーシリーズ9位、ニコスシリーズ8位でシーズンを終えた。

多額の年俸に見合う活躍の出来なかったリネカーに対して多くの失望の声を産んだ。

1994年も11試合に出場で3ゴールと活躍することが出来ずこのシーズン限りでリネカーは現役を引退する事になった。

新たな挑戦と位置付けたJリーグでのプレーだったが、残念ながら名古屋サポーターのみならずJリーグファンの失望をも買う結果となってしまった。

リネカーの引退後と現在

リネカーは引退後、イギリス・BBCのサッカー番組「Match of the Day 」の司会を務める他、新聞などのコメンテーターとして活躍している。

リネカーが活躍出来なかった事は、リネカー自身の怪我の問題もあるが、リネカーのプレースタイルと当時の名古屋グランパスの相性が合わなかったという問題もある。

リネカーがヨーロッパで活躍していた時は、ゴール前で決定的な仕事をする所謂、ワンタッチゴーラーだった。リネカーのゴール集を見てもその殆どがワンタッチ、もしくはツータッチで決めるシーンが多く、リネカーのポジショニングの良さに加え、出してのレベルの高さも影響しているように感じる。

Jリーグでプレーしていたリネカーは得意とするペナルティエリアではなく、下がってバイタルエリア付近で受ける事が多かった。

もし名古屋に優秀なパサーがおり、攻撃陣の歯車が噛み合っていたならば違った結果になったかもしれない。

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