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シジマールの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第119回】

身長183センチしかないシジマールだが、両腕を伸ばすと長さ193センチにもなる。

ゴールマウスの前に君臨するブラジル人GKは誰よりも大きく見え、この男からゴールを奪うのは至難の業であると一眼で分かるようだった。

シジマールはJリーグ元年に清水エスパルスへ加入するとそれまで不安定だった守備を立て直し、Jリーグ連続無失点記録を打ち立てた。

長い腕と大きな手を目一杯広げ、身体全体を大きく見せてシュートコースを制限し、シャットアウトするプレースタイルからクモ男の愛称で親しまれ全国的な人気を誇ったシジマール。

Jリーグ歴代外国人GKの中で最も印象深く、知名度が高いのは間違いなくシジマールだ。

シジマールのJリーグ入り前


シジマールは1962年にサンパウロ州サン・ジョゼー・ド・リオ・プレトで生まれた。

7歳の時にサッカーを始めたが、周りが当然のようにフィールドプレーヤーとしてスタートする中、シジマールはGKというポジションでキャリアをスタートさせる。

自らの意思でGKを選択した事について「そんなブラジル人はほとんどいない」と後に語っている。

14歳のときにサンパウロFCのテストに合格し、17歳のときにグアラニFCとプロ契約を結ぶ。

シジマールはグアラニ所属時代の1981年にU20ブラジル代表に選出。

レオナルド(元鹿島アントラーズなど)やドゥンガ(元ジュビロ磐田など)らと一緒にプレーをしていた。

南米ユース選手権で準優勝、1983年のトゥーロン国際大会では優勝に貢献する。

1988年にはecバイーアに所属し、バルセロナやレアル・マドリードで活躍したエヴァリスト監督の元でプレー。全国選手権優勝を果たす。

その後はエメルソン・レオン監督の元でポルトゥゲーザでプレー。

1991年にはグレミオ、1992年にはECキンゼ・デ・ノヴェンブロと多くのチームを渡り歩く。

1992年、レオン監督がJリーグの清水エスパルスの監督に就任。

シジマールはレオンから直接連絡を受け、1993年7月に清水エスパルスへ加入する。

シジマールのJリーグ入り後

シジマールは加入間もなく1993年7月31日に開催されたNICOSシリーズ第2節サンフレッチェ広島戦でJリーグデビューを果たすとさっそく2-1での勝利に貢献する。

その後、第3節の横浜マリノス戦から第8節のヴェルディ川崎戦まで無失点記録を樹立する。

この記録はJ1リーグの無失点記録として未だに破られていない。

第8節ヴェルディ川崎戦では0-0の末、PK戦に流れ、ヴェルディの5人目のキッカーである石川康のシュートを止めるが審判はシジマールの動き出しが早かったとしてやり直しを宣告。

するとシジマールは「もう一度止めてみせる」と宣言し、今度は逆方向へ飛び見事にセーブして勝利をもたらした。

長い両手足を伸ばし、ゴールマウスを守る姿からクモ男の愛称がつき、シジマールは全国的な人気を博した。

第9節のガンバ大阪戦で礒貝洋光にゴールを奪われ無失点記録は731分で途絶えるが、この試合も3-2で勝利している。

シジマールが加入する前の清水エスパルスは1stステージで18試合25失点したが、シジマールが加入した2ndステージでは18試合9失点となり、清水はいっとき首位に立つなどステージ優勝争いを演じるまでになった。

この年、清水は2ndステージ2位、ナビスコ杯準優勝、天皇杯ベスト4という好成績を収めている。

1994年も清水の守護神として君臨し、Firstステージ第5節から9連勝を飾り清水は首位に立つ。

しかし1994年途中にレオン監督が辞任。

新たにリベリーノ監督が就任すると、ブラジル人FWとしてジャウミーニャが加入。

当時、Jリーグ外国人枠は3名だった為にトニーニョロナウド、ジャウミーニャが起用されシジマールは出場機会を失った。

シジマールは同年10月に清水エスパルスを退団し、古巣であるECキンゼ・デ・ノヴェンブロへ復帰。

しかし退団発表から間もなく清水サポーターにより彼の復帰を求める署名運動が起こり、1995年シーズン前にはGKコーチ兼任で清水に復帰した。

1995年シーズンはサントリーシリーズは守護神としてスタメン出場を続けるが、清水は勝ちきれない試合が続く。

同年4月の浦和レッズ戦ではゴール裏のレッズサポーターの野次に憤慨したシジマールがボールをスタンドに蹴り入れてしまう。

これをレッズサポーターは挑発だと捉え、サポーター数人が激怒しグラウンドに乱入しシジマールを追いかけ回す事件が発生。

事態を収拾する為にシジマールは土下座で謝罪をした。

シジマールは引退後、レッズのイベントに登場して土下座パフォーマンスを披露し会場を沸かせるなどしており、後年和解している。

清水はその後もDF陣を立て直す事が出来ずに1stステージリーグワーストの63失点を喫し14チーム中12位に終わる。

2ndステージには元イタリア代表のFWマッサーロが加入。

外国人枠の問題もあり、またもや出場機会が減少し、正GKの座を真田雅則に譲る。
シジマールはこの年限りでエスパルスを退団する事となった。

Jリーグでは3シーズンプレーし、リーグ戦61試合、カップ戦7試合、天皇杯4試合に出場という記録を残した。

シジマールの引退後と現在

シジマールは引退後、ブラジルの古巣であるECキンゼ・デ・ノヴェンブロの監督を務め、日本では静岡県の国際開洋第一高等学校の監督や静岡県リーグのヴォラーレFC浜松の監督、大阪学院大学サッカー部の特別コーチを務めた。

その後はJリーグの柏レイソルやヴィッセル神戸でGKコーチを務め、2017年にはJ3の藤枝MY FCのGKコーチに就任。

怪我によるGK不足の中でシジマールが54歳で選手登録されるなど大きな話題となったが出場機会はなかった。

現在は藤枝MYFCのヘッドコーチとして活躍している。

シジマールが活躍した当時のJリーグには引き分けというものが存在せず、90分で勝敗がつかなければ延長戦、それでも決着がつかなければPK戦にまでもつれ込んだ。

長い両腕を目一杯広げ、左右に身体を振りながら身体を大きく見せるシジマールはPK戦に滅法強かった。

しかし残念ながら外国人枠の問題もあり僅か3シーズンのプレーとなった。

外国人枠は現在5人まで拡大し、提携国枠1名(タイ、ベトナム、ミャンマー、カンボジア、シンガポール、インドネシア、マレーシア、カタール)を合わせると最大6人まで出場可能になった。

外国人枠問題については賛否両論あるが、個人的には撤廃して構わないと思っている。

Jリーグが世界的に認知され始め、助っ人ではなくJリーグにキャリア形成の為に来日する選手も増えてきた。

Jリーグの中に全て外国人で形成されるようなチームがあっても面白いと感じるが、地域密着を推奨するJリーグにおいて多様性を目指すチーム作りを実現するのはまだまだ先かもしれない。

現在ではヴィッセル神戸がイニエスタやビジャ、ポドルスキーなど多くの外国人スター選手を獲得しているが、ウェリントンやキム・スンギュなどの有力な選手が外国人枠の関係で試合に出られない状況を見ると素直に勿体ないと感じる。

いずれにしろシジマールのように能力はあっても制度の関係で試合に出られないといった事態が減っていく事を願うばかりだ。

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