高原直泰の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第519回】
ゴール前でボールを受ける。
相手DFを背負いながら身体を使ってボールをキープする。
そして、一瞬の隙を見つけると反転してシュートを放つ。
あるいは、味方のパスに合わせて最終ラインの裏へ抜け出す。
ゴールを決めるために必要なプレーを、高いレベルでこなしたストライカーが高原直泰だった。
ジュビロ磐田でプロ入りすると、2002年にはJリーグで26得点を記録。
得点王、最優秀選手賞、ベストイレブンを獲得し、個人3冠を達成した。
その後はアルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズへ移籍。
さらにドイツへ渡り、ハンブルガーSVやフランクフルトでプレーした。
日本代表としても長く活躍。
1999年のワールドユースでは準優勝を経験し、2000年のシドニーオリンピックにも出場。
2006年のドイツワールドカップでは、日本代表のFWとして3試合に出場した。
海外でプレーした経験を持ちながら、Jリーグでも大きな実績を残した高原。
現役最後は沖縄SVでプレーし、選手兼監督としてクラブを率いた。
2023年に現役を引退した後は、沖縄SVの代表や監督としてクラブ運営と選手育成に携わっている。
日本を代表するストライカー、高原直泰。
その現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る。
高原直泰のJリーグ入り前
高原直泰は1979年6月4日、静岡県三島市に生まれた。
サッカーを始めたのは小学生の頃。
三島市立北小学校では三島山田サッカースポーツ少年団に所属した。
その後、東海大学第一中学校へ進学。
ここでもサッカーを続け、年代別日本代表にも選出されるようになる。
高校は静岡県の名門、清水東高校へ進学した。
清水東高校には、当時から将来を期待される選手が多く集まっていた。
高原の1学年上には、後にアビスパ福岡などでプレーする中払大介がいた。
また、同じ静岡県内には、後にジュビロ磐田でともにプレーする選手たちもいた。
高原は高校時代からFWとしてゴールを量産。
1995年にはU-17日本代表に選出され、エクアドルで開催されたFIFA U-17世界選手権に出場した。
このチームには、後に日本代表でともにプレーすることになる小野伸二、稲本潤一、小笠原満男らもいた。
さらに、高原と同じ静岡県の世代には、清水東高校でともにプレーした山崎光太郎もいた。
山崎は高原より1学年上で、高校時代には2トップを組んでいる。
高原は高校2年生の頃から清水東高校の攻撃を担う存在となった。
当時から特徴的だったのは、ゴール前での身体の強さとシュート力。
相手DFに身体を寄せられても簡単には倒れない。
ボールを受ければ前を向いてゴールを狙う。
そして、味方からのクロスに合わせることもできた。
高校時代からストライカーとしての能力を高く評価されていた高原には、Jリーグの複数クラブから声がかかった。
その中から高原が選んだのがジュビロ磐田だった。
1998年。
清水東高校を卒業すると、ジュビロ磐田へ加入する。
プロの世界で、若きストライカーのキャリアが始まった。
高原直泰のJリーグ入り後
1998年3月21日。
ジュビロ磐田対京都パープルサンガ戦。
高原はこの試合でJリーグデビューを果たした。
しかも、いきなりゴールを決める。
プロ入り初戦でJリーグ初ゴール。
18歳の高原は、早くも自分の名前をサッカーファンに知らしめることになった。
しかし、当時のジュビロ磐田には日本を代表するFWがいた。
中山雅史である。
さらに、攻撃的な選手には藤田俊哉、中盤には名波浩、福西崇史らがいた。
若い高原にとって、簡単にレギュラーを獲得できる環境ではなかった。
それでも少しずつ出場機会を増やしていく。
1999年にはU-20日本代表としてワールドユース選手権に出場。
このチームには、小野伸二、稲本潤一、小笠原満男、中田浩二、遠藤保仁らがいた。
日本は決勝まで進み、スペインに敗れたものの準優勝。
高原もFWとしてチームを支えた。
翌2000年にはシドニーオリンピックにも出場。
日本はベスト8まで進出した。
高原は柳沢敦と2トップを組むことも多かった。
柳沢の記事でも紹介されているように、準々決勝のアメリカ戦では高原と柳沢が前線でコンビを組んでいる。
そして高原にとって大きな転機となったのが2001年だった。
日本国内で実績を積んだ高原は、アルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズへ移籍する。
日本の若手FWが南米の名門クラブへ挑戦する。
簡単なことではなかった。
しかし、高原は異なるサッカー文化の中でプレーする経験を得た。
ボカ・ジュニアーズでは多くの試合に出場するまでには至らなかったが、海外でプレーすることで自分の課題と向き合うことになった。
そして2002年。
高原はジュビロ磐田へ復帰する。
ここから、ストライカーとしての高原が一気に開花していく。
2002年のジュビロ磐田には、中山雅史、名波浩、藤田俊哉、福西崇史ら経験豊富な選手が揃っていた。
その中で高原は前線の中心となった。
シーズンが始まるとゴールを量産。
1stステージでは磐田の優勝に貢献した。
ところが、高原は日韓ワールドカップのメンバーから外れることになる。
肺動脈血栓塞栓症を発症したためだ。
自分が日本代表としてワールドカップでプレーすることを目指していた高原にとって、大きな出来事だった。
しかし、シーズン再開後の高原はゴールを量産した。
Jリーグ公式によると、2002年の高原は27試合で26得点。
得点王に輝き、さらに最優秀選手賞、ベストイレブンも獲得した。
ジュビロ磐田は1stステージ、2ndステージの両方を制覇し、年間完全優勝を達成。
高原はその中心選手だった。
この年、高原はJリーグの歴史に残るストライカーとなった。
そして2003年。
再び海外へ挑戦する。
今度の移籍先はドイツのハンブルガーSV。
ブンデスリーガでプレーすることになった。
ドイツでは、フィジカルの強いDFを相手にプレーしなければならなかった。
当初は苦戦する場面もあった。
しかし、少しずつドイツのサッカーに適応。
2004-05シーズンにはブンデスリーガで7得点を記録した。
そして2006年。
アイントラハト・フランクフルトへ移籍する。
ここで高原は再び得点力を発揮する。
2006-07シーズンにはリーグ戦11得点を記録。
ドイツでプレーする日本人FWとして存在感を高めた。
この時期にはUEFAカップでも活躍。
特にニューカッスル・ユナイテッド戦で決めたゴールは、高原の欧州での代表的なゴールの一つとなった。
日本代表でも2006年ドイツワールドカップに出場。
グループリーグ3試合に出場した。
2007年には浦和レッズへ移籍。
Jリーグへ戻ることになる。
浦和には、後に長く日本代表で活躍する選手たちもいた。
高原は前線でゴールを狙い続けた。
その後、水原三星ブルーウィングス、清水エスパルス、東京ヴェルディ、SC相模原と所属クラブを変えていく。
清水エスパルスでは古巣の静岡県へ戻り、経験豊富なFWとしてプレーした。
東京ヴェルディでは若い選手たちとともにプレー。
そして2013年にはSC相模原へ移籍した。
2015年。
高原は新しい挑戦を始める。
沖縄SVを設立した。
自らクラブを作り、選手としてプレーするだけではなく、クラブの運営にも関わるようになった。
2016年からは沖縄SVの監督も務める。
選手と監督。
二つの立場を兼ねながら、沖縄でサッカーを広めていった。
高原にとって、これは単なる現役生活の延長ではなかった。
自分がプレーするだけではなく、クラブそのものを作っていくという新しい挑戦だった。
2023年。
高原は選手としての引退を決断する。
沖縄SVは2023年8月、高原が2023シーズンをもって選手を引退すると発表した。
一方で、代表取締役としてクラブを運営し、監督としてトップチームを率いる立場は継続すると発表している。
18歳で始まったプロ選手としての生活は、25年で幕を閉じた。
高原直泰のプレースタイル
高原直泰のプレースタイルを語るうえで、まず挙げたいのがゴール前での強さだ。
181cmの身体を生かし、相手DFと身体をぶつけながらボールを受ける。
ただし、単純に身体が強いだけではない。
高原は相手DFを背負った状態からでも、素早く前を向くことができた。
一瞬で反転する。
そして、そのままシュートを放つ。
2002年の高原を見ていると、このプレーが何度も見られた。
ゴール前でボールを受ける。
DFが身体を寄せる。
そこで身体を使って相手を抑えながらボールを保持する。
そして、相手が少しでも離れた瞬間にシュートを打つ。
これが高原の大きな武器だった。
また、シュートの種類も多かった。
右足での強烈なシュート。
左足でのフィニッシュ。
ペナルティエリア内でのワンタッチシュート。
ミドルレンジからのシュート。
さらにヘディングも得意だった。
ゴール前でのポジショニングも高いレベルにあった。
自分がどこへ動けばボールが来るのか。
味方がボールを持った時、どのコースへ走ればDFの背後を取れるのか。
常にゴールを意識して動いていた。
そして、高原にはドリブルもあった。
スピードに乗った状態で相手DFへ仕掛ける。
相手をかわしてシュートまで持っていく。
2002年当時の高原は、こうした力強いドリブル突破も武器としていた。2002年当時の報道でも、高原の「力強いドリブルで局面を打開するスタイル」が特徴として紹介されている。
つまり、高原は単純な「ポストプレー型FW」ではなかった。
ゴール前で身体を張る。
裏へ抜ける。
ドリブルで仕掛ける。
味方からのクロスに合わせる。
そして自らシュートを打つ。
複数の方法でゴールを狙うことができた。
また、高原のプレーには非常に強い「ゴールへの意識」があった。
味方へパスを出すことより、自分がゴールを決めるべき場面なのか。
それとも、味方へ預けてもう一度ゴール前へ入るべきなのか。
FWとしての判断を常に考えていた。
一方で、守備にも献身的だった。
前線から相手DFやGKへプレッシャーをかける。
ボールを失えばすぐに奪い返そうとする。
現代のようにFWにも守備が強く求められる時代になる前から、前線での守備を惜しまない選手だった。
そして、海外での経験によってプレースタイルにも変化があった。
ドイツでは身体の強いDFと対峙する機会が多かった。
その中で、相手を背負ってボールを収める技術を磨いていった。
単純なスピードだけではなく、身体の使い方を覚えていったのである。
ハンブルガーSV時代にはポストプレーについて指導を受けたこともあり、その後の高原は前線でボールを収めて攻撃の起点になるプレーも見せるようになった。
高原のプレースタイルは、若い頃からずっと同じだったわけではない。
ジュビロ磐田時代は、ゴール前での突破力と得点力が大きな武器だった。
ドイツへ渡ると、身体の強いDFを相手にポストプレーを身につけた。
その経験によって、FWとしての引き出しが増えていった。
そして日本代表でも、さまざまなタイプのFWと競争した。
柳沢敦、中山雅史、久保竜彦ら、それぞれ異なる特徴を持ったストライカーたちと代表のポジションを争った。
その中で高原は、自分の身体能力と技術を生かしてゴールを狙った。
特に印象的なのは、相手DFとの駆け引きだ。
ただ速く走るだけではない。
一度相手の視界から消える。
そしてタイミングを見て動き出す。
味方がボールを出す瞬間には、すでにゴールへ向かっている。
こうした動きの質も、高原が多くのゴールを決めた理由の一つだった。
そして、何よりも「ゴールを奪う」ということに対する執念が強かった。
2002年に27試合26得点という数字を残したことが、それを最もよく表している。
当時のジュビロ磐田には、名波浩、藤田俊哉、福西崇史ら優れたパサーがいた。
高原は彼らから供給されるボールをゴールに変えていった。
その意味では、チームのパスワークと高原のフィニッシュが噛み合ったことで、あの驚異的な得点数が生まれたともいえる。
ゴールを決める。
それがFWの仕事だとすれば、高原直泰はその仕事を極めようとしたストライカーだった。
高原直泰の引退後と現在
2023年シーズンをもって、高原は選手としての現役生活を終えた。
ジュビロ磐田でプロになってから25年。
日本、アルゼンチン、ドイツ、韓国でプレーし、日本代表としても国際舞台を経験した。
Jリーグでは2002年に27試合26得点を記録して得点王。
同時に最優秀選手賞、ベストイレブンも獲得し、個人3冠を達成した。
海外ではボカ・ジュニアーズ、ハンブルガーSV、フランクフルトなどでプレー。
特にフランクフルトでは2006-07シーズンにリーグ戦11得点を記録するなど、ドイツでも結果を残した。
日本代表としては2006年ドイツワールドカップに出場。
1999年のワールドユースでは準優勝、2000年のシドニーオリンピックではベスト8を経験した。
そして引退後も、サッカーから離れることはなかった。
高原が選んだのは、自らが設立した沖縄SVを育てていく道だった。
沖縄SVは2015年に設立。
高原は選手としてプレーする一方、クラブの代表、監督としてチームを率いてきた。
2023年に選手を引退した後も、代表取締役としてクラブを運営し、監督としてトップチームを率いることになった。
さらに、高原はサッカーだけではなく、沖縄での地域活動にも取り組んでいる。
沖縄でクラブを運営するだけではなく、農業にも取り組み、選手の育成と地域に根付いた活動を続けている。
高原が沖縄でコーヒー栽培などの農業に取り組んでいることも紹介されている。
プロサッカー選手としては、ゴールを奪うことが仕事だった。
しかし現在は、自分がゴールを決めるのではなく、クラブそのものを成長させることが仕事になった。
ジュビロ磐田時代には、中山雅史、名波浩、藤田俊哉、福西崇史らとともに黄金期を築いた。
日本代表では、小野伸二、稲本潤一、小笠原満男ら同世代の選手たちと世界を戦った。
そして海外へ渡り、日本人FWとしてドイツの舞台にも挑戦した。
その経験を持つ高原が、現在は沖縄で次の世代を育てている。
高原直泰のキャリアを振り返ると、やはり2002年が大きな転機だった。
Jリーグで26得点。
得点王。
MVP。
ベストイレブン。
ジュビロ磐田の完全優勝。
日本代表としてワールドカップに出場するという夢は肺の病気によって叶わなかったが、その悔しさをJリーグでのゴールという形に変えた。
そして、その年の活躍をきっかけにドイツへ渡った。
海外で苦しんだ時期もあった。
怪我や病気も経験した。
それでも、そのたびにピッチへ戻ってきた。
高原直泰というストライカーを象徴するのは、やはりゴールだ。
身体を張ってボールを受ける。
相手を背負う。
反転する。
裏へ抜ける。
ドリブルで仕掛ける。
そしてシュートを放つ。
一つの形だけではなく、さまざまな方法でゴールを奪った。
日本を代表するFWとして、そして海外へ挑戦した日本人ストライカーとして、高原が残したものは大きい。
2023年に選手としての現役生活を終えた。
しかし、高原直泰のサッカー人生は終わっていない。
現在は沖縄SVの代表としてクラブを運営し、監督としてチームを率いる。
選手としてゴールを追い続けた男は、今度はクラブを育てる立場になった。
自らの経験を若い選手へ伝え、沖縄の地でサッカーを根付かせていく。
ピッチの上でゴールを決める高原直泰から、クラブを作り、次の世代を育てる高原直泰へ。
日本を代表するストライカーの新しいサッカー人生は、沖縄で続いている。



