爽やかな外見とは違い、鬼気迫る気持ちと玄人好みの泥臭いプレースタイルでゴールを狙うストライカー、高田保則。
かつては小野伸二や稲本潤一らと共に黄金世代の選手としてワールドユースの準優勝を経験。高田も他のメンバーと同じく日本を代表する選手になるかと思われた。
しかしその後は結果を出せず、ベルマーレはJ2へ降格。高田も網膜剥離を患い選手生命の危機に立たされる。
得点の取れない時期も続いたが、高田は見事に復活を遂げる。ベルマーレ平塚やザスパ草津のエースストライカーとしてチームを牽引し続けた。
かつて湘南の貴公子と呼ばれたプリンスは過酷なJ2の舞台でゴールを奪い続け、リーグ通算700本のシュートを放ち、76ゴールという当時のJ2最多得点記録をマークした。
高田保則のプロ入り前
高田は1979年、神奈川県横浜市に生まれた。
小学校時代、兄とともにサッカー少年団の川崎YMCAに所属。1つ上の学年には薮田光教、菅原 智がいた。
5年生の時第4回全国少年少女草サッカー大会でチームは準優勝、高田は優秀選手賞に選ばれた。
中学生時代は日産FCジュニアユース(現:横浜Fマリノス下部組織)に所属。
同期には中村俊輔、佐原秀樹がいた。しかし周囲のレベルの高さもあり3年間公式戦への出場はなかった。
中学卒業後、神奈川県立元石川高等学校へ入学。ベルマーレ平塚ユースに入団する。
ここで高田はチャンスを掴み、レギュラーとして活躍。DFの裏に飛び出すスピードとポジショニングの良さで得点を重ね、神奈川県国体選抜メンバーに選ばれるなど頭角を現していく。
そして高校卒業後、1997年ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)へ入団する。
高田保則のプロ入り後
ベルマーレユースからただ1人トップチームへ昇格した高田は、入団した1997年は出場がなかったものの1998年8月8日第17節のジュビロ磐田戦でJリーグデビューを飾る。
その後も日本代表FWの呂比須ワグナーと2トップを組み試合出場を続けていく。
1998年9月26日、Jリーグセカンドステージ第8節横浜フリューゲルス戦。
サンパイオと対峙した際、積極的に仕掛けPKをもらう。そのプレーが日本代表監督に就任したばかりのトルシエ監督の目にとまり、U-20 FIFAワールドユース日本代表メンバーに選ばれた。
小野伸二、稲本潤一、高原直泰ら黄金世代の中で高田はリザーブのFWだったが、交代で出ると自分の役割をきっちりこなしボールに必死にくらいついていくような体を張ったプレーでチームに貢献。
ワールドユースを戦う日本代表18名の中に名を連ね、ナイジェリアで開催されたFIFAワールドユース世界選手権の準優勝に貢献した。高田は3試合に出場を果たした。
帰国後、ワールドユース準優勝を達成した黄金世代のFWとして高田に期待が集まる。
しかしベルマーレのスポンサーであるフジタの撤退もありベルマーレはファーストステージ最下位に沈んでいた。
高田自身もなかなか調子が上がらず得点が奪えない試合が続く。ベルマーレは2ndステージも最下位となりJ2に降格。高田もシーズン終了間際に網膜剥離を発症するなど選手生命の危機に陥る。
スポンサー撤退の影響で小島伸幸、野口幸司、名塚善寛、田坂和昭、公文裕明、岩元洋成など主力選手が退団していく中、高田はJ1からのオファーを断り誰よりも早く契約を更改する。
そこからベルマーレは長らくJ2での戦いを強いられるが、高田はベルマーレのエースとして奮闘。
2001年にはリーグ戦41試合に出場し17得点を挙げるなど活躍。
高田はその後もベルマーレでプレーを続けるがJ1への昇格は果たせずにいた。
2005年、横浜FCにレンタル移籍。この年はリーグ戦8試合の出場に留まり1得点に終わるとベルマーレへ復帰は叶わず2006年はザスパ草津に完全移籍となる。
2007年J2第43節サガン鳥栖戦では、交代枠を使い切った後にGKの本田征治が退場処分を受けると控えGK北一真のユニフォームを借り、約10分間GKとしてプレー。
高田はファインセーブを見せ1-1のドローに貢献した。
2008年に網膜剥離を再発させるも復活。
2010年10月3日の東京ヴェルディ1969戦でJ2通算400試合出場を記録。
最終節の柏レイソル戦前に練習で右膝じん帯を損傷。試合可能な状態ではなかったが心身ともに極限状態のなか痛み止めの注射を打ち自らの意思でピッチに立った。0対4という結果であったが高田は前線から激しくボールを追い、ゴール前で闘い続けた。
この年チーム2位となるリーグ戦33試合に出場するも、若返りを図るチーム方針から廣山望らと共に戦力外通告を受ける。
その後も現役続行を希望し、群馬の大学でトレーニングに励む日々を送るが期待していたオファーは届かず2011年11月に現役引退を表明。
J2最多出場407試合、J2最多得点76点という成績を残し第一線を退いた。
高田保則の引退後と現在
高田は引退後、日本サッカー協会のJFAこころのプロジェクト「夢教室」の仕事に携わっている。
元プロサッカー選手として子供達に夢を持つことの大切さを伝える日々を送っている。
高田が共に戦った黄金世代の選手達はワールドユース後に世界へ羽ばたいた。
2001年に稲本潤一はイングランドへ、小野伸二はオランダへ、高原直泰はアルゼンチンを経てドイツへと渡った。
小笠原満男や遠藤保仁、本山雅志もJ1で圧倒的な存在感を見せその後日本代表の中心選手となっていった。
もし高田保則がJ1チームからのオファーを断る事がなかったら同じようにJ1で活躍する姿が観れたかもしれない。
しかし高田は残った。11シーズンという長い年月をJ2で戦い、407試合に出場し76ものゴールを叩き込んだ。2度の網膜剥離を乗り越え、過酷なスケジュールのJ2リーグを11年間も戦い抜いた。
苦しい時のチームを支えてくれたベルマーレやザスパ草津のサポーターは高田保則の事はいつまでも誇りに思うだろう。
カテゴリーなんて関係ない。泥臭く生きた高田保則の経験は世代を超えて子供達に受け継がれていく。