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阿部良則の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第72回】

高い身体能力を武器にスピード豊かな突破力をもつストライカー、阿部良則。

1993年、Jリーグ開幕試合となるヴェルディ川崎vs横浜マリノス戦で途中出場でデビューを果たす。

日本代表選手を多く抱えるヴェルディの中で、阿部は代表選手不在のカップ戦で活躍。

どんな体勢からでも貪欲にゴールを狙うスタンスと甘いルックスは将来のヴェルディを代表する選手と期待された。

しかし阿部はヴェルディ川崎でデビュー後、ブランメル仙台や鳥栖フューチャーズ、湘南ベルマーレ、川崎フロンターレなど様々なチームを渡り歩くことになる。

阿部良則のプロ入り前


阿部は1972年に神奈川県藤沢市に生まれた。

幼少期からサッカーを始め、藤沢市立秋葉台中学に入学後サッカー部で活躍。

同中卒業後は藤嶺学園藤沢高等学校に進学。

高校在学中に読売クラブ(現東京ヴェルディ)のユースチームに加入した。

近い年代に中村忠山口貴之らがおり、阿部は日本クラブユース選手権の優勝に貢献した。

尚、ヴェルディユースは1988年の第12回から1993年の第17回まで6連覇を果たしている。

阿部は高校卒業後、読売ジュニオールを経てトップチームの読売クラブに昇格。

1992年のJリーグ発足に伴いプロサッカー選手としての道を歩むことになる。

阿部良則のプロ入り後

阿部はJリーグ開幕戦となる1993年5月15日のヴェルディ川崎vs横浜マリノス戦で後半から加藤久に代わってJリーグデビューを果たす。

初年度は途中出場が多いながらもリーグ戦8試合に出場。

1993年のヴェルディ川崎は三浦知良、武田修宏、ラモス瑠偉、北澤豪柱谷哲二都並敏史菊池新吉と言った日本代表組に加え、ビスマルク、ペレイラを擁し圧倒的な力を発揮。

阿部は藤吉信次や永井秀樹らとともにリーグ戦ではベンチを温める日々が続いたが、代表選手が不在の中行われるカップ戦では藤吉信次とツートップを形成し活躍した。

阿部はルックスの良さもありレギュラーでないながらも高い人気を誇った。

翌1994年は出場機会を11試合に伸ばし、1994年4月27日の鹿島アントラーズ戦ではJリーグ初得点を記録。

1995年には出場機会を求めて当時JFLのブランメル仙台(現 ベガルタ仙台)に移籍。

チームのエースとして君臨し、リーグ戦23試合に出場し13得点を挙げた。

1996年には同じくJFLの鳥栖フューチャーズに加入し、背番号7を背負いリーグ戦22試合に出場し9得点を挙げるが、チームの解散により翌年ヴェルディに復帰した。

しかし1997年のヴェルディ川崎にはFWに三浦知良、武田修宏、アルシンド、マグロン、布部陽功などタレントが豊富で阿部は出場機会に恵まれなかった。

翌年、再度JFLのブランメル仙台へ移籍。リーグ戦21試合に出場し12得点を挙げ、仙台のJリーグ昇格に貢献した。

翌1999年も仙台でプレーをしJ2リーグ戦18試合に出場し7得点を記録。

1999年4月第6節のサガン鳥栖戦ではアクロバティックなゴールを決めて1-0の勝利に貢献した。

2000年は湘南ベルマーレでプレーをし、翌2001年は川崎フロンターレへ移籍。

川崎フロンターレでは我那覇和樹や向島健とツートップを形成。30試合に出場し4得点を挙げるも、この年限りで現役を引退した。

阿部良則の引退後と現在

阿部は引退後、指導者に転身。

地元の神奈川県藤沢市で「A.C.ミラネーゼ&サッカースクール」を開講し、小学生(6~12歳)を対象にしたサッカースクールを発足させている。

現役時代、赤く染めた髪とプレースタイルから赤い爆撃機と呼ばれた男の新たな挑戦が始まっている。

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