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鈴木和裕の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第135回】

スピードに乗った攻撃参加と正確なクロスを武器に右サイドバックとして活躍した鈴木和裕。

上背はないものの、カバーリングにも長けておりスイーパーやストッパーとしても重宝された。

若かりし頃は市立船橋高校の主将として選手権優勝を経験し、各年代日本代表にも選出された。

Jリーグではジェフ市原、京都パープルサンガ、水戸ホーリーホックと渡り歩きDFの要としてJリーグ通算360試合出場を果たした。

頼れるDFのキーマン、鈴木和裕に迫る。

鈴木和裕のプロ入り前


鈴木和裕は1976年に東京都に生まれた。

幼少期に千葉県に引っ越し、船橋市立高根小学校に入学。サッカーを始める。

高根中学校サッカー部で活躍後、サッカーの名門である船橋市立船橋高等学校へ進んだ。

市船には同期に茶野隆行(元日本代表)、森崎嘉之(元ジェフ市原、水戸ホーリーホック)がおり、1学年上にはアトランタオリンピック代表の秋葉忠宏、2学年上には鬼木達(元鹿島アントラーズ、川崎フロンターレ)がいた。

鈴木は1年生ながら強靭な肉体とスピードを買われ、右サイドバックのレギュラーに定着し、市船伝統の堅守を体現した。

高校1年生からU16日本代表、U17日本代表に選出され、1993年U17世界選手権に出場。

中田英寿、松田直樹、財前宣之らと共にプレーし、日本のベスト16進出に貢献。鈴木は市船から唯一選出された。

日本はトッティやブッフォンを擁するイタリアと引き分けに持ち込み、決勝トーナメントに進出するなど、この年代の選手達は世界を相手に戦えるポテンシャルを見せた。

市船では高校2年時に全国高校サッカー選手権に出場するも2回戦で高槻南高校にPK戦の末敗れた。

高校3年時には主将となり、背番号5をつけ市船のスイーパーとしてチームを牽引。

3年時に出場した選手権では決勝で帝京高校を5-0で破り、市船初の選手権優勝の立役者となった。

鈴木和裕は高校卒業後、市船で共にプレーした茶野隆行森崎嘉之と共に地元のJリーグチームであるジェフ市原へ入団。

3人は市船トリオとして騒がれ、市船主将でもあり年代別代表経験のある鈴木は即戦力として期待された。

鈴木和裕のプロ入り後

ジェフに入団した鈴木は高卒ルーキーながら身体能力の高さと正確なクロスを評価され、右サイドバックのレギュラーに定着。リーグ戦33試合に出場した。

またこの年行われた1995年FIFAワールドユース日本代表に選出。

背番号16をつけ、中田英寿、松田直樹山田暢久安永聡太郎らとともにプレーし日本のグループリーグ突破に貢献。

準々決勝でブラジルに1-2で敗れるが、同大会での初のベスト8進出は日本サッカー界にとって明るい話題となった。

鈴木はアトランタオリンピック代表候補にも名を連ねるも本戦登録メンバーからは漏れた。

ジェフではサイドバックやセンターバックとしてプレーするも、山口智ら若手の台頭もあり1999年、2000年ともにリーグ戦8試合のみの出場となりポジションを失ってしまう。

2001年に出場機会を求めてJ1に昇格した京都パープルサンガへ移籍。

京都ではセンターバックとして手島和希、佐藤尽と3バックを形成。

2002年、京都は朴智星、松井大輔、黒部光昭ら強力な攻撃陣を擁しJリーグ年間順位5位となり、天皇杯では優勝のタイトルを獲得するが、2003年には朴智星の移籍などで戦力がダウンしJ2に降格した。

2004年、2005年と鈴木はJ2でのプレーとなるが、DFの中心選手としてチームをまとめ2005年のJ2優勝に貢献した。

2007年からは水戸ホーリーホックへ移籍。

水戸では背番号4をつけ、30代となったがベテランらしい落ち着いたプレーでDFをまとめた。

質の高いクロスと動き出しの速さは健在で、水戸でも不動のレギュラーとして活躍。

3シーズン在籍し、リーグ戦109試合に出場した。

鈴木は2009年、水戸から戦力外通告を受けトライアウトに出場するも所属先が決まらずにこの年限りで現役を引退した。

鈴木和裕の引退後と現在

鈴木は引退後、2010年からNPO法人スポーツアカデミーのコーチに就任。

2015年からは東京国際大学体育会サッカー部のコーチを務めている。

市船の主将として全国制覇を経験し、年代別日本代表の常連だった鈴木和裕。

市船同期でありジェフでもともにプレーした茶野隆行が日本代表に選出され脚光を浴びたのを見ると、当時の主将である鈴木和裕が日本代表に選出されなかったのは少し寂しく感じる。

それでも20代半ばで現役を引退する選手が多い中、所属した3チームで存在感を発揮しJリーグ通算360試合出場を果たしたのは鈴木和裕の能力の高さだけでなく信頼も厚かった事を証明している。

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