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野田知の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【302回】

創世記の横浜マリノスやアビスパ福岡で活躍した守備の職人、野田知。

戦術理解力に優れ、冷静な読みで穴を危険なスペースを埋める。またミドルレンジからの強烈なシュートももっている。

1995年はリーグ戦50試合に出場を果たしマリノスの年間優勝に大きく貢献。

派手さはないが堅実な守備と意表を突いた攻撃参加で1990年代黄金期のマリノスを支えた。

野田知のJリーグ入り前


野田は1969年に北海道室蘭市に生まれた。小学校の時にサッカーを始め、室蘭市立向陽中学校サッカー部で活躍。

高校は室蘭大谷高等学校へ進学。同学年に財前恵一がいた。室蘭時代は中心選手として活躍し3年連続で全国高校サッカー選手権に出場。3年時は準々決勝で黒崎久志擁する宇都宮学園と対決。前日に雪が降るコンディションの中、試合は白熱し0-0のままPK戦へ突入したが両チームとも5人全員が成功し、サドンデスとなり15人目でようやく決着がつくという高校サッカー史に残る名試合となった。PK戦を制した室蘭大谷であったが続く準決勝では国見高校に0-1で敗れベスト4となっている。国体では北海道選抜の一員に選出。

高校卒業後、野田は国士舘大学へ進学。大学時代は2年時、3年時に大学選手権ベスト8、大学4年時に選手権準優勝の成績を残した。大学3年時に日本代表Bメンバーに選出され1988年のアジアカップに出場。グループリーグ最終戦のカタール戦に出場するが試合は0-3で敗れ日本はグループリーグ敗退となった。またファイブ・ア・サイド・フットボール(現フットサル)日本代表にも選出され第一回世界大会に出場している。

大学卒業後、野田は日産自動車サッカー部(現横浜Fマリノス)へ入団する。日産では入団3年目から出場機会を得る。Jリーグ開幕前年に行われたJリーグカップではボランチとして9試合すべてに出場を果たしたがマリノスは5勝4敗で7位となった。

1993年、Jリーグが開幕。野田はマリノスでJリーガーとなった。

野田知のJリーグ入り後

野田は1993年5月15日1stステージ第1節ヴェルディ川崎戦でJリーグデビューを果たす。第6節浦和レッズ戦ではJリーグ初ゴールを奪った。

1994年、1995年と2年連続で開幕戦弾を決め、1995年はリーグ戦50試合に出場しマリノスの1stステージ優勝と年間チャンピオンに大きく貢献した。1996年も3年連続の開幕ゴールが期待されたが前半終了間際にイエローカード2枚で退場となっている。

1997年からは背番号7を背負い、中盤の底で安定した守備を見せマリノスの強力な攻撃陣を支えた。

1999年にアビスパ福岡へ移籍。

アビスパでも読みの鋭さや守備能力の高さは健在で三浦泰年とのコンビで貢献したがチーム成績は振るわず1999年の最終順位は14位、2000年は12位となった。2001年は15位となりJ2へ降格。野田は一旦戦力外通告を受けるも再契約を結ぶ。

2002年シーズンは自身初のJ2での戦いとなったがリーグ戦16試合の出場に留まりこのシーズンをもって福岡を退団。

2003年-2004年は、九州リーグのヴォルカ鹿児島でコーチ兼選手としてプレーし、2004年シーズンをもって現役を引退した。

野田知の引退後と現在

野田は引退後、ヴィッセル神戸のフロントに入り指導者として活躍。

U13やU15の監督を経て、2011年からヴィッセル神戸U18の監督に就任している。野田知の息子である野田樹はヴィッセル神戸のユースを経て2017年にトップに昇格。親子二代でJリーガーとなった。

野田樹は現在カターレ富山へレンタル移籍中。この移籍で結果を出し偉大な父を超えることが出来るか。今後が非常に楽しみである。

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