豊富な経験で得た戦術眼と、強靭な肉体が武器の1980年代の中国を代表するストロングタイプのディフェンダー賈秀全。
賈秀全は中国代表として1984年のアジアカップ最優秀選手になり、1988年には中国人として初めてのUEFAカップに出場するなど、アジアを代表する選手であったことは間違いない。
ソウルオリンピックアジア予選では、日本を2-0で破り、賈秀全はその立役者として賞賛を受けた。
そんな買もJリーグには苦戦することになり、Jリーグでは1年のみのプレーとなった。
しかし賈秀全は、Jリーグで始めてプレーした中国人ということもあり知名度は高い。
熱い魂を持つ男、賈秀全に迫る。
賈秀全のJリーグ入り前
中国のサッカーチーム、八一足球隊で頭角を現し、17歳の時に初めて中国代表に選出される。
1984年のアジアカップでは中国代表の中心選手としてプレー。
この頃、賈秀全は得点能力も高くアジアカップではシンガポール戦、インド戦、UAE戦で得点を挙げ、大会得点王に輝く。
アジアカップ決勝ではサウジアラビアに0-2で敗れるも、賈秀全はアジアカップ最優秀選手に選出された。
1987年10月には国立競技場でソウルオリンピックアジア予選で日本と対戦。
賈秀全は中国代表主将として中国ディフェンス陣を統一し、日本を零封した。
その後1988年にソウルオリンピックに出場。西ドイツ、スウェーデン、チュニジアという強豪グループに入り、中国は一勝も出来ずに大会を後にした。
賈秀全は1988年からは慣れ親しんだ八一足を離れ、ユーゴスラビアリーグのパルチザン・ベオグラードに移籍。
中国人として初めて、UEFAカップにも出場した。
その後1991年にはマレーシアのロイヤルポリスへ移籍。
1992年に日本のガンバ大阪へ移籍した。
賈秀全のJリーグ入り後
中国代表をソウルオリンピック出場に導いた統率力を見込まれ、ガンバ大阪ではディフェンスリーダーとして期待された。
Jリーグ開幕前の1992年のナビスコカップには7試合に出場。
名古屋グランパスエイトのリネカーや、ジェフ市原のリトバルスキーなど、各チームが海外の大物外国人選手の獲得に沸く中、ガンバ大阪に有名外国人はおらず、釜本邦茂監督の元、本並健治、永島昭浩、礒貝洋光など日本人選手が中心となってガンバ大阪を盛り上げた。
1993年、Jリーグ開幕試合の浦和レッズ戦にて賈秀全は背番号2をつけてフル出場。
開幕試合こそ浦和レッズに勝利したものの、以降は奮わずに、1st・2ndステージとも8勝10敗の成績で、順位はそれぞれ10チーム中8位と6位。
ガンバ大阪はJリーグ開幕初年は年間成績7位に終わる。
賈秀全は不動のセンターバックとして奮闘し、リーグ戦25試合に出場するも、気の強さが空回りしてしまい1年間で3回の退場処分を受けてしまう。
特に、リーグ戦では勝ち星を挙げれなかったガンバ大阪が勝ち進んだナビスコ杯準決勝での清水エスパルス戦での賈秀全の退場はチームにとってもダメージが大きく、ガンバ大阪は2-4で敗れることとなった。
また、1993年7月10日サントリーシリーズ第17節vsヴェルディ川崎ではラモス瑠偉と小競り合いの末、退場処分となっている。
賈秀全の執拗なマークに苛立ったラモスが賈秀全に肘打ちをし、ボールを賈秀全の顔面に投げる。怒った賈秀全はラモスに対してパンチで応戦し、それに対してラモスは賈秀全の首を絞めるような行為を行う。
結果、賈秀全はレッドカード、ラモスはイエローカードという処分が下された。
賈秀全はこの年限りでガンバ大阪を退団し、現役生活にピリオドを打った。
賈秀全の引退後と現在
賈秀全はガンバ大阪を退団後、指導者に転身。
古巣である八一足球倶楽部で監督業をスタートし、中国U17代表チームのコーチやオリンピック中国代表の監督を歴任。
2009年には中国スーパーリーグの強豪である上海申花の監督としてアジアチャンピオンズリーグで鹿島アントラーズと対戦したことで再び注目を集めた。
現在は女子中国代表の監督を務めている。
かつて井原正巳がアジアの壁と呼ばれる前、賈秀全がアジアの壁と呼ばれていた。
21歳でアジアカップ最優秀選手に選ばれ、中国代表として136試合出場というキャリアを積んだ経験は今後も指導者としてサッカー界に還元されていくだろう。