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米倉誠の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第233回】

創成期の名古屋を代表する選手の1人である米倉誠。

展開力に優れ、スペースを見つけると決定的なスルーパスを出す。自ら行ける局面では精度の高いミドルシュートを放つ。

ファルカン監督時代の1994年にはその能力を高く評価され日本代表候補にも選出。

闘志を前面に出して戦う米倉誠のファイティングスタイルはチームの士気を上げ、多くのサポーターからも支持を集めた。

米倉誠のJリーグ入り前


米倉誠は1970年、群馬県前橋市に生まれた。

小学生6年の時に地元のクラブの前橋エコークラブに入団。

前橋市立鎌倉中学校卒業後、群馬県立前橋商業高等学校に入学。1学年下に服部浩紀がいた。

米倉は展開力のあるMFとして活躍し、3年時に全国高等学校サッカー選手権に出場。準々決勝では四日市中央工業を3-1で破りベスト4に進出するも、清水商業に1-2で敗れている。

1986年、米倉は高校卒業後にJSLの1部チームのある日本鋼管サッカー部に入部。

日本鋼管では加入初年度からリーグ戦17試合に出場しレギュラーを獲得。しかし2年目のシーズンはレギュラーとしてチームを牽引するも、日本鋼管はシーズンを通して僅か2勝しか挙げられず2部リーグに降格。米倉は同年をもってチームを離れる事になった。

翌年、Jリーグ加入を目指すトヨタ自動車(名古屋グランパスエイト)に加入する。Jリーグ開幕の為にJSL最期のシーズンとなったがトヨタは成績が低迷し最下位となり、米倉は2年連続で最下位を経験する事となった。

1993年、Jリーグが開幕。米倉は名古屋グランパスでJリーガーとなった。

米倉誠のJリーグ入り後

1993年、J1サントリーシリーズ第1節鹿島アントラーズ戦でJリーグ初出場を果たすが、ジーコのハットトリックや、アルシンドの活躍により0-5で大敗を喫している。

米倉はその後も臨機応変なプレースタイルが買われ、名古屋の中心選手として活躍。初年度はリーグ戦31試合に出場した。

米倉は闘志を前面に出して戦う選手であり、1993年の天皇杯鹿島アントラーズ戦では、ジーコにライン沿いで激しく削られると、激昂した米倉はジーコの胸ぐらを掴んで抗議。結局この抗議が元で退場となってしまうのだが、ジーコにも怯まないこの姿勢から「神様に唯一立ち向かった男」として注目された。

1994年4月9日第8節ヴェルディ川崎戦。当時のヴェルディはリーグ最強であり名古屋とは明らかな実力差があったが、後半16分に強烈なロングシュートを決め1-0での勝利に貢献した。

同年にはファルカン監督により日本代表に選出。サイドも中央もこなせる米倉の代表での活躍が期待されたが、試合出場はなかった。

その後も名古屋で平野孝中西哲生らと共に中盤を支えるが1996年にセレッソ大阪に移籍。

セレッソでは中盤のオールラウンダーとしてプレー。1997年からは背番号7を背負い闘志溢れるプレーでチームを支えた。

1998年5月9日1stステージ第12節サンフレッチェ広島戦では勝利に繋がるゴールを決めるも、その後は出場機会が減少。2ndステージは全く出場機会がなくこのシーズン限りで現役を引退した。

米倉誠の引退後と現在

米倉誠は引退後、地元である群馬県の高崎東高校やプーマフットサルスタジアム世田谷、そして自身が代表を務めるヨネクラサッカースクールの指導者となった。

現在は名古屋グランパスOBである飯島寿久小川誠一らとともに名古屋市、長久手市、小山市を中心にサッカースクールを運営している。

Jリーグ開幕当初、名古屋グランパスは成績が低迷し、勝ちきれないシーズンを過ごしていた。そんな苦しいチーム状況の中で米倉は得意のスルーパスとミドルシュートを武器に日本代表にまで上り詰めた。

1994年のヴェルディ川崎戦では30メートル級のロングシュートを決めている。このゴールが決勝点となり、当時圧倒的な強さを見せていたヴェルディに一矢報いる形となった。

スタジアムを静寂の後からの興奮の渦に巻き込んだ米倉の弾道ミドルシュートは、名古屋のオールドファンの間で未だ語り草となっている。

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