Jリーグ創成期のガンバ大阪を支えた永島昭浩。
鬼気迫る表情でボールを受け取ると、ゴールまでの最短距離を狙い、
常にどん欲にゴールを狙った。
点取り屋と呼んだほうがしっくりくるかもしれない。
そんな永島に迫っていく。
永島昭浩のプロ入り前
小学4年生からサッカーを始めた。
高校は御影工業高校へ進学。1、2年時には全国高校選手権出場し、注目を集める。3年では兵庫県選抜入りし、島根国体で優勝する活躍を見せる。
高校卒業後の1983年に松下電器産業サッカー部(現ガンバ大阪)に入団するも、
最初の3年間はほとんど出場機会を得られなかった。
4年目からポジションを獲得した永島は、シーズンを通して7得点を記録。
入団7年目にはシーズンを通して22試合に出場し15得点を記録した。
1991年元日には松下電器の天皇杯優勝に貢献。
永島は活躍が認められ、日本代表に選出される活躍を見せた。
永島昭浩のプロ入り後
1993年、Jリーグが開幕する。
松下電器はガンバ大阪になり、永島はチームのエースストライカーとしてガンバ大阪を支える。永島は6月の名古屋戦でハットトリックを記録。これはJリーグ日本人選手初のハットトリックとなった。
このシーズンは32試合に出場し12得点を記録するも、ガンバ大阪の成績は低迷した。
永島は翌年、清水エスパルスへ移籍。
開幕戦でゴールをあげるなど活躍し、Jリーグオールスターにも2年連続で選出。このシーズンも28試合に出場し8得点を記録した。
しかし1995年。
永島の生まれ故郷である神戸が震災に合う。
永島の家も阪神淡路大震災により全壊した。
この震災を機に、永島は当時JFLだったヴィッセル神戸へ移籍を決意。
Jリーグの強豪クラブのエースが、下部リーグに移籍したことは大きな話題になった。
移籍初年度、永島は背番号「51」という大きな数字を背負ってプレー。
翌年は28試合に出場し17得点を記録するなど活躍し、ヴィッセル神戸のJリーグ昇格に貢献した。
永島はこの活躍からミスター神戸とよばれた。
その後、Jリーグに復帰したシーズンも32試合に出場し22得点をあげ、得点ランキング3位となる活躍をみせる。
その後、ヴィッセル神戸には2000年まで在籍。
引退するシーズンまで毎年得点を重ねた。
Jリーグで161試合に出場し61得点という記録を残して永島は引退をした。
永島昭浩の引退後と現在
永島は現在、ニュースキャスターとして忙しい毎日を送っている。
そのハンサムな顔つきとユニークなキャラクターでお茶の間の人気者となっている。
ミスター神戸とまでよばれた永島が背負った背番号「13」は、神戸のエースナンバーとされ、永島の後に播戸竜二、大久保嘉人、我那覇和樹とエースストライカーが背負い続けた。
震災を機に、地元を盛り上げようと下部リーグに移籍した永島。
現役晩年の選手なら分かるが、永島はまだ現役バリバリの選手だった。
そして驚くべきところは、その3年後に、Jリーグに復帰したあとも得点を量産したことだ。
生粋の点取り屋はステージを選ばず活躍し続けた。