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柱谷幸一の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第47回】

上背は178cmと、FWとしてはさほど大きくないものの、得点感覚に優れ、ヘディングでのゴールが多かった柱谷幸一。

前線で溜めをつくれる選手で、キープ力があるため、柱谷を経由して数々のゴールが生まれた。

Jリーグ開幕時には30歳を越えていたため、晩年は守備的MFなどポジションを下げてプレーした。

日本代表29キャップ、日本リーグ新人王、日本リーグ4度のベストイレブンなど、実弟柱谷哲二に劣らないほど功績は輝かしい。

浦和レッズや柏レイソルで活躍した柱谷幸一に迫る。

柱谷幸一のプロ入り前


柱谷は1961年に京都府京都市に生まれた。

幼少期から運動神経が発達していた柱谷は、住んでいたところにサッカーチームが無かった為、ソフトボールに励んでいたが小学5年の時に花園少年団が創設されサッカーを始めた。

中学校は京都市立双ヶ丘中学校に進み、練習環境が良かったとは言えない状況で全国大会ではベスト8進出を果たした。

敗れた対戦相手のチームには、後に日産や日本代表でともにプレーする水沼貴史が在籍していた。

高校は、京都商業高校(現京都学園)へ進学。

1年生よりレギュラーとして活躍し、全国選手権出場を果たした。

1977年には国体で準優勝。

柱谷は教職免許取得を目指してこともあり、サッカーと両立させるべく国士舘大へ進学した。

大学4年時にはチームの全国制覇に貢献した。

国士舘大学在学中から日本代表に選ばれ、ロサンゼルス五輪予選や1986 FIFAワールドカップ・アジア予選にFWとして出場した。

1983年に日産自動車(現横浜FM)に入社。

開幕からレギュラーの座を掴み、第4節マツダ(現広島)戦で初ゴールを挙げて波に乗ると、シーズン7ゴール5アシストの大活躍を見せて、新人王を獲得した。

木村和司水沼貴史、金田喜稔らと共に活躍し、1980年代末の日産黄金期に欠かせない選手として君臨した。

1987からの5年間は、弟、柱谷哲二ともプレー。

日本サッカーリーグでは140試合に出場、52得点の成績を残した。

柱谷幸一のプロ入り後

柱谷は1992年、Jリーグの開幕前に浦和レッズへ移籍。

開幕戦のガンバ大阪戦では背番号11をつけ、福田正博、フェレイラと3トップを組んだが、試合は1-0で敗れた。

初年度は18試合に出場し2得点を挙げる。

貴重なベテランとして精神的支柱として期待されたが、肉離れを起こして離脱。

柱谷を失ったチームは最下位に沈んだ。

翌1994年も出場は7試合に留まり、シーズン途中に当時JFLの柏レイソルに移籍。

柏レイソルのJリーグへの昇格に貢献した。

柏は中盤でのプレーもしつつ、本来のFWでのポジションでは、ブラジル代表カレカエジウソンと2トップを組んでプレー。

再びJリーグの舞台に返り咲き、1996年までプレーして引退した。

柱谷幸一の引退後と現在

柱谷は引退後、1999年にS級ライセンスを取得。

2001年からはJ2のモンテディオ山形で、2004年からは京都パープルサンガで指揮を執った。

2005年にはJ2での優勝を果たし、J1に昇格するも成績は低迷し、シーズン途中に解任された。

その後は栃木SCやギラヴァンツ北九州の監督を務め、現在は主に解説者として活躍している。

日本が手中に収めかけたアメリカワールドカップへの道。

柱谷はテレビ中継のゲストとしてスタジオにいた。

イラクに同点ゴールを決められ、ワールドカップ出場を目前にしながらも念願のワールドカップ初出場の切符を失った日本。

柱谷はスタジオでコメントを求められた際に、涙で詰まりながらも言葉を振り絞った。

「胸を張って帰ってきてほしい」

今、日本は当たり前のようにワールドカップに出場を続けている。

しかし長年苦しめられたアジアでの勝利は未だ容易ではない。

アジアの厳しさを忘れてはいけない。

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