ドーハの悲劇が起きなければ、ワールドカップで初めてゴールを守る日本人はこの男になる筈であった。
松永成立。日本サッカー史に名を残すGKである。
身長180センチと、GKとしては小柄ながらも抜群の反射神経と絶妙なポジショニングで日本代表で長きに渡って活躍。
気迫溢れる果敢な飛び出し、フィールドプレーヤーのような正確な足元のテクニックなど全てにおいて日本トップレベルの技術を誇った。
松永成立はゴールキーパーは体格ではない事を体現した伝説のGKだ。
松永成立のプロ入り前
松永は1962年、静岡県浜松市に運送業を営む厳格な父親の元に3人兄弟の末っ子として生まれる。
浜松市立飯田小学校に入学後、野球を始めるが監督と対立し野球チームを辞めサッカーを始めた。ポジションは長身だった事もあり当時からGKを務めた。
東部中学校進学後、静岡県立浜名高校へ進学。
高校時代の練習はハードであり、朝練が終わって授業が始まると手がこわばって鉛筆が握れない程であった。
練習が終わるのは夜の22時。次の日の朝練に備え朝4時に起床する生活を3年間送った。当時の方針で練習中は水も飲めず地獄のような生活の中で松永のメンタルと身体は鍛えられていく。
このハードな練習が実り、高校3年時の1980年に国民体育大会優勝を経験、高校サッカー選手権静岡県予選では激戦区の中、決勝に進出する快進撃を見せた。
高校卒業後、サッカー推薦で愛知学院大学へ進学。
1年時から正GKとなり、2年時には全日本大学選抜に選出され、同年の日韓学生定期戦に出場。
大学4年時にはユニバーシアード代表として勝矢寿延らと共にユニバーシアード神戸大会に出場を果たした。
この活躍を受け、大学卒業後の1985年に日本サッカーリーグ1部の日産自動車サッカー部へ加入する。
日産に入部後、すぐに出場の機会を掴むも松永はプロの壁に直面する。
当時の日産には金田喜稔、木村和司、水沼貴史、柱谷幸一、柱谷哲二、長谷川健太など多くの日本代表選手を抱えており、新人でゴールキーパーを務める松永は周囲の実力に圧倒された。
プロ意識の高さが故に、ミスをすると激しく罵倒され自信を失った。
ボールを見るのも先輩の顔を見るのも嫌になった松永は、当時の監督である加茂周に試合を欠場したいと直訴したほどであった。
しかし加茂周は松永を信頼し欠場を認めなかった。松永は苦しみながらも徐々に結果を出し周囲の信頼を勝ち取っていく。
1988年、入団4年目には日産自動車はリーグ戦で優勝を果たし、松永はベストイレブンに選出される。同年には日本代表として初キャップも記録した。
1989年には翌年のイタリアワールドカップを目指す日本代表の正GKとしてアジア予選を戦った。
その後も1990年、1991年と2年連続で日本サッカーリーグベストイレブンに選出されるなど日本トップクラスのGKとしての地位を確立する。
1992年、日産はJリーグ参入の為横浜マリノスへ改称。長谷川健太や柱谷幸一、柱谷哲二などの主力が移籍をする中、松永成立は残留しマリノスでJリーガーとなった。
松永成立のJリーグ入り後
1993年、Jリーグが開幕後も松永成立はマリノスの正守護神として開幕戦から先発出場を続ける。
日産時代から無二の親友であるDF井原正巳と共にマリノスや日本代表のゴールを守り続けた。
同年のアメリカワールドカップ予選でも正GKを務め、第4戦の韓国戦では左足一本で止めて見せるなど好セーブを連発し勝利に貢献。松永はマン・オブ・ザ・マッチを獲得した。
そして悲願のワールドカップ初出場まであと一歩と迫った10月28日のイラン戦。
2-1で迎えた後半ロスタイム。右コーナー付近から上げられたセンタリングにイランのサルマンがヘディングで反応。
ボールは松永の頭上を放物線を描いて越えゴールに吸い込まれた。
初出場の切符が手元からするりと落ちた瞬間だった。
松永はこのドーハの悲劇を「ショックとともに記憶がなくなっていった」と後年、語っている。ホテルに帰ってからも泣き続け正常な精神状態ではいられなかったと話す。
しかしこの悲劇後も、これまで様々な困難を乗り越えてきた強靭なメンタルを武器にJリーグで活躍する。
1993年は優勝こそ逃すものの初代Jリーグベストイレブンに選出。
続く1994年も正GKとしてリーグ戦43試合に出場。9月3日のジェフ市原戦でパベル・ジェハークへのファウルで退場処分となるまで64試合6089分連続出場を続け、Jリーグ開幕時からの連続出場が最も長い選手となった。
しかし1995年、当時のマリノスの監督であるソラリは正GKに若手の川口能活を抜擢する。
松永はベテランの域に達してはいたものの、この年も日本代表に選出されるなど実力はトップクラスであった。若手を抜擢し、経験を積ませたい首脳陣と松永は衝突。松永はシーズン途中に長年在籍したマリノスを去る事になる。
1995年シーズン途中、松永はJFLの鳥栖フューチャーズへ移籍。日本代表クラスの選手の下位リーグへの移籍は当時異例とも言えるものだった。
松永はシーズン途中の移籍ながらすぐさま正GKとなり、2シーズンゴールマウスを守るも鳥栖フューチャーズは債務超過によりチームが解散。1997年には同リーグのブランメル仙台(現ベガルタ仙台)へ移籍。
1997年8月にJリーグの京都パープルサンガからオファーを受けJリーグに復帰。
京都では勝ちきれない苦しいシーズンが続くが松永は正GKとしてゴールを守った。
1999年にはナビスコ杯のモンテディオ山形戦で松永の蹴ったクリアボールがそのまま相手ゴールに入り、そのまま得点。松永はJリーガーでは史上2人目の得点を決めたゴールキーパーとなった。(1人目は浦和レッズの田北雄気がPKで記録)
2000年、京都は年間成績は15位に終わり、J2へ降格。松永もリーグ戦出場が15試合に留まりこのシーズン限りで現役を引退した。
松永成立の引退後と現在
松永は引退後、京都のGKコーチに就任。
しかしJリーグではGKコーチがまだ定着していなかった事もあり練習メニューが浮かばず苦闘するが毎日GKの動きを観察し、独自の練習メニューをノートに書き留めていった。
6年間に及ぶ京都での指導。気がついたらノートは段ボールいっぱいになっていたという。
その後、古巣である横浜マリノスからオファーを受け指導者としてマリノスへ復帰。
2007年から横浜マリノスのGKコーチとして指導にあたっている。
質だけではなく練習量も多い松永の指導は鬼のシゲさんと呼ばれるほどである。
松永はGKに必要なのは確かなテクニックはもちろんのこと、強靭なメンタリティーであると語っている。
松永は高校時代、日産時代、そしてあのドーハの悲劇と様々な困難を乗り越えてきた。
苦しい試合状況の中でもGKは決して表情には出さず、チームを鼓舞し続けなければならない。
サッカーは11人でやるスポーツだが、ゴールキーパーは1人でだけである。どんなに苦しくてもGKの代わりはいないのである。
そしてGKは試合に出場出来なければシーズン通してベンチを温め続ける事になる。常に戦う気持ちを温め続けながら、来るかもしれないその時を待つ事になる。そのまま何年も待ち続けてもピッチに立てるかどうかは分からない。GKは過酷で孤独なポジションだとつくづく思う。
しかし孤独が故に最後は精神力の差がものを言う。
松永成立は自らの経験を伝えながら、GKとして1番大切なものを今日も選手へ植えつけている。