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小泉淳嗣の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第276回】

身長183センチ73キロという恵まれた体格を生かし、相手キーマンに仕事をさせないほどタイトで激しいマークが持ち味のセンターバック小泉淳嗣。

日産自動車サッカー部に入部後、Jリーグ開幕時は横浜マリノスでプレー。日本代表の井原正巳と共にマリノスの堅守を支えた。

マリノス退団後は横浜フリューゲルス、川崎フロンターレでプレー。

小泉はキックも正確で、最後方から前方に効果的なフィードを配給した。

小泉淳嗣のJリーグ入り前


小泉は1968年に栃木県真岡市に生まれた。

中学校卒業後、宇都宮学園高校(現・文星芸術大学附属高校)へ入学。1986年第64回全国高等学校サッカー選手権大会では1学年後輩の黒崎久志とともに準々決勝で3連覇を目指していた帝京高校を下しベスト4に進出。

準決勝は接戦となったが真田雅則江尻篤彦擁する清水商業に0-1で敗れている。この年は清水商業が四日市中央工業を破り優勝を果たしている。

1986年国士舘大学へ進学、サッカー部へ入部。しかし1988年に中退し横浜F・マリノスの前身である日産自動車サッカー部へ入団する。

日産自動車では入団3年目にレギュラーを獲得。1990-1991シーズンは柱谷哲二井原正巳とコンビを組み、リーグ戦全チーム最少失点となる10失点に抑える活躍を見せる。しかし爆発的な得点能力をもった読売クラブが優勝を果たし、日産は2位に甘んじた。

1992年、日産自動車はjリーグ入りのために横浜マリノスへ改称。主力選手が移籍をしていく中、小泉は残留しマリノスでjリーガーとなる。

小泉淳嗣のJリーグ入り後

小泉は1993年5月15日Jリーグ開幕戦となるサントリーシリーズ 第1節ヴェルディ川崎戦でjリーグ初出場を飾る。前半19分にヘニー・マイヤーに振り切られJリーグ第1号ゴールを許してしまったが、この開幕戦は2-1で見事勝利している。

第18節名古屋グランパス戦では前半14分にJリーグ初ゴールをマーク。小泉のこのゴールが決勝点となり1-0で勝利を収めた。序盤戦はセンターバックとして出場を続けたが小村徳男が頭角を現すと守備的MFとして出場するようになっていった。jリーグ開幕年はリーグ戦27試合に出場。

1994年は1stステージはレギュラーとして起用されるも2ndステージからは出場機会が減少。1995年は更に減り、シーズン途中で横浜フリューゲルスへ移籍。

フリューゲルスでは大嶽直人岩井厚裕、高田昌明とともにDFラインを形成。1stステージ第15節では古巣のマリノスと対戦したが小泉はイエローカード2枚をもらい退場となっている。

1997年にJFLの川崎フロンターレに移籍。

Jリーグ経験の豊富なベテランとしてチームを牽引。リーグ戦30試合中22試合に出場しフロンターレの年間順位3位に貢献するもこの年限りでユニフォームを脱いだ。

小泉淳嗣の引退後と現在

小泉淳嗣の引退後については詳細は判明していない。何かわかり次第このサイトでも紹介していきたいと思う。

小泉淳嗣は現役時代、ハードなマークが身上の選手だった。1993年8月7日1stステージ第4節の鹿島アントラーズ戦では神様ジーコに徹底したマンマークを決行。後半、バイタルエリアにドリブルで侵入したジーコに臆せずにスライディングでタックルをした。この強烈なタックルに対して小泉にイエローカードが出た。足をおさえて痛がるジーコに小泉は手を差し伸べたがジーコは手を叩いてそれを拒否。この行為に対してジーコにもイエローカードが出たが、この判定を不服としてアルシンドが激高。審判にボールをぶつけて抗議を行った結果、イエローカードを提示され後日、審判への暴力行為として4試合出場停止処分が降っている。

たとえ相手が大物であろうとも、怯まずに執拗なマンマークを徹底する小泉の持ち味を象徴するようなシーンだった。

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