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宮澤浩の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第364回】

184cmの長身を生かした空中戦と、ボディコンタクトに優れたDF宮澤浩。

Jリーグ開幕当初のジェフ市原でデビュー後、ベルマーレ平塚、サンフレッチェ広島で活躍した。

激しいハードマークで、相手ストライカーのマンマークを得意とした。

Jリーグを離れた後は、当時としては珍しくオーストラリアやニュージーランドでプレーをした。

宮澤浩のJリーグ入り前


宮沢は1970年に神奈川県茅ケ崎市に生まれた。

父親はラグビーの選手だったが、小学校4年生でサッカーを始め、枚方FCに所属してプレーをした。

神奈川県立藤沢西高等学校進学後、サッカー部に所属、同学年に沢田謙太郎(柏レイソル)、小椋哲也(ガンバ大阪)がいる。

高校時代は向上高校とともに神奈川県代表として高校総体に出場しベスト8に進出しているが、高校選手権への出場は叶わなかった。

高校卒業後。中央大学へ進学。同学年には沢田謙太郎、1学年上には菊原志郎(ヴェルディ川崎)、大熊裕司(柏レイソル)、村田一弘(セレッソ大阪)、横山雄次(柏レイソル)がおり、1学年下には長谷部茂利(ヴェルディ川崎)、菅野賢一(柏レイソル)がいる。

大学時代は、ヘディングの強い屈強なセンターバックとして活躍。

大学1年次にU-18、2年次にU-19日本代表に選出され、大学生主体で選出されたバルセロナオリンピック日本代表候補に選出。中央大学からは他に長谷部茂利も選出されている。
選出されたDFは層が厚く、名塚善寛(フジタSC、)、薩川了洋(全日空)、小村徳男(順天堂大学)、秋田豊(愛知学院大学)、相馬直樹(早稲田大学)、飯島寿久(東海大学)など多くが後にJリーガーとなっている。

宮沢は4年次に全日本大学サッカー選手権大会の優勝に貢献。またこの年、中央大学は総理大臣杯で3位に進出している。

大学卒業後、スカウトを受けていたジェフ市原に入団する。

宮澤浩のJリーグ入り後

宮沢が入団した年にJリーグが開幕。
Jリーグ開幕試合であるサンフレッチェ広島戦で先発出場を果たす。阪倉裕二、吉田暢と3バックを形成した。
開幕から5試合で4勝1敗とスタートダッシュに成功するも、その後は勝ちきれない試合が続いた。
宮沢自身もスタメンに固定されたわけではなく、影山雅永や宮澤ミッシェル、サンドロらと熾烈なポジション争いを繰り広げた。

ルーキーイヤーはリーグ戦13試合に出場したが、ジェフは年間順位8位に沈んだ。

その後1994年はリーグ戦5試合、1995年はリーグ戦1試合の出場に留まり、この年限りでジェフを退団。

1996年にベルマーレ平塚へ移籍した。移籍1年目は開幕戦の名古屋グランパスエイト戦で先発するも怪我の為に途中交代。
その後は第7節清水エスパルス戦で復帰すると、キャリハイとなるリーグ戦24試合に出場を果たした。

1997年に出場機会が減少すると、1998年にサンフレッチェ広島へ移籍。

開幕試合の柏レイソル戦から3バックの一角として出場を続ける。第13節京都パープルサンガでは、後半にJリーグ初ゴールとなる決勝点を決め2-1での勝利の立役者となった。

しかしその後は左ひざじん帯の怪我のため、戦列を離れると1999年、2000年と公式戦に出場できずこの年限りでサンフレッチェを退団。

その後、サンフレッチェのヘッドコーチを務めていたトム・サーマンニに誘われ、オーストラリアリーグのキャンベラ・コスモスFCへ移籍。

1年間プレーした後、ジェフ市原時代のチームメートのウィントン・ルーファーより誘いを受け、オークランド・キングスFCへ移籍した。

キングスでは2シーズンに渡りプレーし、現役を引退した。

宮澤浩の引退後と現在

宮澤は引退後、ニュージーランドに残り、ルーファーが立ち上げたサッカースクール・ウィナーズのコーチに就任。
その後もU-20ニュージーランド代表のコーチを務めるなど、海外でキャリアを積み重ねている。

今でこそヨーロッパを始め、世界のいたるところで日本人選手がプレーをしているが、2000年ころにニュージーランドにプレーの場を求める選手は非常に珍しかった。
現在では多くの日本人選手がニュージーランドへ活躍の場を移してプレーしている。

宮沢は指導者として、アルビレックス新潟でプレーするフィッツジェラルド舞行龍ジェームズらを育てた。今後もニュージーランドやオーストラリアから有望な若手選手がJリーグに入ってくるだろう。宮沢はパイオニアとして、日本とニュージーランドをつなぐ架け橋となっている。

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