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安永聡太郎の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第29回】

安永聡太郎は「超高校級」と言われた。

安永聡太郎は高校時代に高校選手権、全日本ユースの二冠、3年次には高校総体、全日本ユースで栄冠を手にした。

タイトルを総なめにした安永はアイドルのような扱いを受け、高校サッカーのスター的存在となった。

世代を代表するストライカーだった安永聡太郎は、その類まれなるサッカーセンスとゴールへの嗅覚が備わっており、その未来を嘱望された。

しかし安永聡太郎は日本代表でキャリアを重ねることもなく29歳で現役を引退する。

いったい誰がこうなることを予想できただろうか。

しかし安永聡太郎は多くのフットボールファンに愛され、まだ海外移籍が当たり前ではない時代にJリーグの舞台を飛び出し、スペインでの戦いを選択した。

天性の才能があったのは間違いないが、安永聡太郎にあったのは「才能」だけではなかった。

安永聡太郎のプロ入り前


安永は1976年に山口県宇部市に生まれた。

安永は小学校3年生でサッカーと出会う。

サッカーを始めたきっかけはキャプテン翼と、意外なことに女の子にモテたいからだった。

しかし毎日3時間の練習に耐えられず、安永は1週間でサッカーを辞めてしまう。

安永は、水泳や習字、そろばん、野球、ソフトボール、バスケットボールなどもやってみたが、どれもこれも1週間ともたなかったという。

そんな飽きやすい少年だった安永は小学校4年生の時に友達に誘われ、もう一度サッカーを始める。

友人のおかげで始めたサッカーに安永はのめりこむ。

サッカーが大好きになり、小学6年生のころにはサッカーで生きていくという夢をもった。

安永が育った宇部市内には19のチームがあり、小学6年生のときに宇部市の大会で優勝した。

地元の上宇部中学校を経て、静岡県のサッカーの強豪である静岡市立清水商業高校(現・清水桜が丘高校)という学校に進学を決める。

清水商業を選択した理由を安永はこう語っている。

「静岡県で優勝すれば、日本で1番になれる。だから、1番強い高校に行けば、一番になるための挑戦、つまり、日本一になるための挑戦ができるんじゃないかと思った。」

親元を離れ、レベルの高い仲間と日が暮れるまでボールを追いかける毎日。

辛い練習に打ち勝った安永は、1年生からレギュラーで活躍し、高校生活で6度の全国優勝を経験する。

安永は超高校級ストライカーとして注目され、メディアにも多く取り上げられた。

安永は高校卒業後、サンフレッチェ広島から誘いを受けていたが、将来の海外留学を容認した横浜マリノスに入団を決意する。

安永聡太郎のプロ入り後

1995年、マリノスは1stステージ優勝、そして年間総合優勝を飾るなど絶好調。

安永も好調なチームの中で高卒ルーキーながらリーグ戦28試合に出場を果たす。

しかし1995年のマリノスの前線はビスコンティとメディナベージョら強力な外国人がいたため、安永は途中出場が多かった。

1996年、安永はアトランタオリンピックアジア最終予選の日本代表に選出。

中田英寿や前園真聖、城彰二らとともに日の丸をつけて戦うも、オリンピックの代表メンバー23人の中に入ることができなかった。

同じポジションの小倉隆史が靭帯断裂の大怪我を負い、安永にはオリンピック出場のチャンスがあったが叶わなかった。

この理由を安永は「遊びを覚えてしまったから」だと後年語っている。

「ベンチには入っていたし、試合にちょこちょこ出て、そこそこできていた。そこそこというと語弊がある。結果は残っていなかったから。それでもある程度稼げる。独り身だから背負っているものもない。ちょろっと試合に出て、普通のサラリーマンでは考えられないような金額貰って、いい車乗って、色んな女の子を紹介してもらって……。サッカーよりもそっちの方が楽しかった。本業を忘れていたんです」

同じチームの川口能活や松田直樹らはオリンピックのメンバーに選出。

チームメイトがアトランタオリンピックでブラジルを倒すマイアミの奇跡を起こす中、安永はマリノスでも相変わらず出場機会が限られていた。

危機感を感じた安永はマリノスを離れ、戦いの場をスペインに移すことを決意する。

安永聡太郎のスペイン移籍。そしてJリーグ復帰

安永は1997シーズンにスペインのセグンダ・ディビシオン(2部)のUEリェイダにテスト入団を経て期限付き移籍を果たし、34試合に出場し4得点を挙げる。

リェイダの監督は、後のレアル・マドリードやトットナム・ホットスパーなどの名門クラブで指揮を執ることになるファンデ・ラモス氏だった。

ファンデ・ラモス氏は安永にこのような言葉をかけている。

「お前にお金を払っているのは、パスに対してじゃない。10回勝負して9回取られても、残りの1回でゴールにつなげてくれれば、それでいい」

安永はカップ戦でバルセロナとも対戦。世界のサッカーを肌で感じた。

UEリェイダには当初、半年のみの契約だったがクラブの強い希望で更に半年の契約延長となる。

1年後、横浜マリノスに復帰した安永は19試合に出場し6得点を挙げ、スペインでの成長を見せる。

翌年の1999年には清水エスパルスに移籍金約9千万円で完全移籍を果たす。

ゴール数は少なかったが、レギュラーとして活躍し、エスパルスの2ndステージ初優勝に貢献した。

しかし2001年、監督批判を行ったとして1ヶ月の謹慎処分を受けてしまう。

出場機会を求めてマリノスにレンタル移籍するも、そこでまた監督と衝突。

紅白戦にすら出られなくなってしまった安永は再度スペインへ舞台を移す。

入団したチームはスペインリーグ2部のラシン・デ・フェロールだった。

フェロールでは12試合出場1得点の記録を残し、チームからは高評価を得て。残留を希望されたが安永はそれを断りJリーグへ復帰する。

その後、復帰したマリノスで2年間、柏レイソルで1年間プレーをし、2005年で29歳で引退を決意した。

安永聡太郎の引退後と現在

安永は引退後、2007年から日本サッカー協会が進めているJFAこころのプロジェクト(ユメセン)の専属講師として、日本全国の小学校などでサッカー教室を開催している。

安永は現役時代、ポテンシャルに見合った活躍が出来なかったかもしれない。

監督との衝突も経験し、意識の甘さからオリンピック出場の機会も逃した。

しかし、安永は自身の失敗や経験を、若い世代に伝えている。

サッカー選手になるという夢を抱く子供たちに、同じ失敗をしてほしくないから。

安永はサッカー教室で子供たちにこう語っている。

「一番、大事なのは、感謝の気持ちだね。今からでも必ず誰でも持つことができるようになるものだし、家族にだって友達にだって、先生にだって『ありがとう』というひと言が言えるようになれば、いろんな人間関係が変わってくるから。」

天国も地獄も味わった安永の言葉は重く、そして嘘がない。

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