中盤から効果的なパスを配給し、ゲームメイクの役割を担うMF名取篤。
高校時代からその才能は高く評価され、高校1年時からレギュラーで全国制覇を経験。高校生ながらワールドユース日本代表に選出された逸材。
卒業後はJSLで新人王を獲得。日本代表に選出されたのは26歳と遅かったが、展開力のある司令塔として国際Aマッチ6試合に出場した。
現役時代は一貫して三菱(浦和レッズ)でプレー。現役晩年はボランチとして創成期の浦和レッズを支えた。
名取篤のJリーグ入り前
浦和市立木崎小学校時代にサッカーを始め、木崎サッカーフェスティバルに所属。小学校卒業後、浦和市立木崎中学校へ進学。県大会ベスト4を経験した。
名取は中学卒業後、東京の帝京高校へ入学する。サッカー部の、同級生には三菱で活躍する川添孝一、後に競輪選手となる小門洋一、とんねるずの木梨憲武がいた。
部員100名を超えるサッカー部の中、名取は1年生でレギュラーを獲得する。その年の高校選手権ではスーパーサブとしてメンバー入りし決勝で四日市中央工業を5-0で破る圧倒的な強さを見せ優勝に貢献した。
翌年1978年にはU-20サッカー日本代表に選出。1979年には、高校生ながらFIFAワールドユース選手権日本大会のメンバーに水沼貴史、柱谷幸一らと共に選出された。名取は清水市商高の風間八宏、仙台向山高の鈴木淳とともに高校生トリオとして名前を馳せたが本大会では出場の機会はなかった。
日本は開催国という事もあり大きな期待を集めたが、2分1敗でグループリーグ3位となり、決勝トーナメント進出は果たせなかった。この大会はアルゼンチンが優勝し、後にマリノスで活躍するラモン・ディアスが大会得点王に、ディエゴ・マラドーナが最優秀選手に選出されている。
高校3年の高校選手権では川添孝一らと共に2年ぶり3度目の優勝に貢献。山梨県の古豪である韮崎高校を破っての優勝であったが、試合後には5000人を超えるファンがピッチ内に乱入し怪我人も出る騒ぎになった。
高校卒業後、名取は日本サッカーリーグ1部の三菱重工業サッカー部(現浦和レッドダイヤモンズ)へ入団する。午前中に出社し、午後から練習をするという毎日を送る。
加入1年目から出場機会を掴み、日本サッカーリーグ新人王に選出された。
その後も三菱の中盤のレギュラーとして出場を続け、1983年に尾崎加寿夫らと共にリーグ優勝に貢献した。
1985年に日本代表に初招集。だが遠征中に肉離れを起こし出場の機会は得られずその後も代表からは遠ざかった。1988年再び日本代表に招集を受け、6月5日の国際Cマッチであるバイエル・レバークーゼン戦で代表デビューを飾ったのを皮切りに夏のヨーロッパ遠征メンバーにも名を連ね、同年10月26日に行われた日韓定期戦でAマッチ初出場を果たした。
1989年三菱は2部リーグ降格となるが25試合に出場、主将として三菱の中盤を支え翌年の1部復帰に貢献。得点王の福田正博、アシスト王の広瀬治と共に2部リーグベストイレブンに選出された。
1992年に日本プロサッカーリーグ創設に伴い浦和レッドダイヤモンズが誕生。名取は浦和レッズでJリーガーとなった。
名取篤のJリーグ入り後
浦和レッズとなってからも名取篤は中盤のレギュラーとしてプレー。
1993年5月16日1stステージ第1節ガンバ大阪戦でJリーグ初出場を果たす。帝京高校の後輩でもある広瀬治と共にベテラン選手として牽引。ボランチを務めた。
1993年はリーグ戦28試合に出場を果たすも浦和レッズは最下位争いをしてしまうほど低迷。
リーグワーストの年間78失点を喫し、年間順位最下位に沈んだ。この年の浦和の外国人のフェレイラ、ラーンらが結果を残せず攻守の要を欠いた事が迷走の原因であったと言われている。
翌年の1994年はリーグ戦3試合のみの出場に留まり、この年限りで名取は現役を引退した。
日本サッカーリーグ通算215試合に出場9得点、Jリーグ通算31試合に出場無得点という成績だった。
名取篤の引退後と現在
名取篤は引退後、浦和レッズの下部組織の指導者に就任。
ジュニアユースやユースの監督を経て、2018年より浦和レッズレディースのコーチに就任している。
名取篤は現役時代、ボールコントロール、パスセンス、キープ力に優れたオールラウンダーであった。
脚光を浴びた高校時代はアイドル級の人気を誇り、ワールドユース日本代表に選出されるなどその才能は早くから嘱望された。
Jリーグ開幕後は所属する浦和レッズが低迷期であった事や名取が既に32歳という年齢であった事もあり長く活躍する事出来なかったのは残念であるが、経験に裏打ちされた確かな技術と読みの鋭さで見せるいぶし銀のプレーは流石というべきであり、若い浦和に安定性をもたらせた。