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原田武男の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【301回】

精度の高いパスを生かした展開力をもったボランチ原田武男。戦術眼に優れており、傑出した読みで相手の攻撃の芽を摘む守備の職人。

横浜フリューゲルスでは山口素弘やサンパイオらとレベルの高いポジション争いを繰り広げ、その後Jリーグ4チームを渡り歩く。

2005年からは当時九州リーグのヴィファーレン長崎へ移籍。39歳で現役を引退する2010年までプレー。長崎の創立から参加し献身的にチームを支えた原田は「ミスターV・ファーレン」と呼ばれ親しまれた。

原田武男のJリーグ入り前


原田は1971年佐賀県鹿島市に生まれた。兄二人の影響もあり鹿島市立浜小学校1年生の時からサッカーを始める。小学5年時に全国大会に出場を経験。

中学3年時に全国中学校大会に出場し九州選抜としてもプレー。この活躍が小嶺監督の目にとまり、長崎県立国見高校へ入学する。

国見では1年時からレギュラーとして起用される。初優勝を飾った第66回大会には1年生ながら3試合に出場。準決勝・決勝と先発出場を果たしロングスローでチャンスを演出しチームに貢献した。3年次はチームの主将を任された。

高校卒業後、早稲田大学へ進学。同期には相馬直樹がいた。
4年次に第42回全日本大学サッカー選手権大会では5得点を挙げる活躍を見せ優勝に貢献、最優秀選手賞も受賞した。ユニバーシアード日本代表やオリンピック日本代表に選出され、大学2年次には日本代表に召集され、日韓戦でベンチ入りを果たすも出場は無かった。

大学卒業後の1994年、原田は数あるオファーの中から横浜フリューゲルスへ入団する。

原田武男のJリーグ入り後

原田はフリューゲルス入団後、シーズン前の怪我で出遅れたが4月16日1stステージ第10節ヴェルディ川崎戦の延長戦に前田治と交代でJリーグ初出場を果たす。その後もコンスタントに出場しリーグ戦31試合に出場。山口素弘とコンビを組んだダブルボランチはJでも屈指の守備力を誇った。

1995年にブラジル代表ボランチのサンパイオが加入し出場機会を減らすも、ユーティリティ性のある原田は様々なポジションで出場する。8年横浜Fにとって最後の大会となった天皇杯では国見の後輩である三浦淳宏らと優勝を成し遂げた。1998年、横浜フリューゲルス消滅決定後の天皇杯で優勝に貢献。

1999年、セレッソ大阪へ移籍。

セレッソでは中盤の底や3バックの一角としてプレー。1999年はリーグ戦全試合に出場するも2000年は大きく出場機会を減らす。

2000年シーズン途中、川崎フロンターレへレンタル移籍。

フロンターレでは中盤の汗かき役として活躍。2001年にはJ2の大分トリニータへレンタル移籍。リーグ戦40試合に出場しチームを支え、最終節までJ1昇格争いを繰り広げ奮闘したが結果6位で昇格を逃した。

2002年、J2のアビスパ福岡に完全移籍。2シーズン在籍するが昇格は果たせず2008年をもって退団。

2005年、九州リーグのヴィファーレン長崎へ加入。

長崎ではプレー以外の面でも献身的にチームを支え2009年のJFL昇格の原動力となった。

2010年現役を引退。

原田武男の引退後と現在

原田は現役引退後、2011年から長崎のフロントに入る。2017年からはギラヴァンツ北九州の監督を務め、2018年からは指導者としてヴィファーレン長崎へ戻っている。

まだ長崎がJリーグに昇格する前、仕事終わりに土のグラウンドで練習をするチームメイトの為に原田は献身的に動いた。練習着の洗濯や企業への営業回りなど、長崎の未来の為にプレー以外の面でも汗を流した。まだ何もない畑に蒔かれた種に水をかけ続けた。クラブの為に、いつか陽が当たることを信じて。

長崎は再びJ1へ返り咲く為に戦っている。長崎へ愛情を注ぎ続けた原田武男という男とともに。

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