創世記の横浜フリューゲルスのストライカーとして活躍した前田治。
前田は鋭い切り返し、スペースへの瞬時の飛び出しを武器に得点を量産する。
大学時代に4年連続で得点王、JSLでは1年目から二桁得点を挙げ新人王を獲得し、1993年のJリーグ開幕戦から4試合連続でゴールを挙げるなど活躍した。
日本代表としてもイタリアワールドカップアジア予選に出場するなど国際Aマッチ14試合に出場して6得点を挙げた。
生粋の点取り屋、前田治に迫る。
前田治のJリーグ入り前
元々は野球少年であり、将来は巨人の選手を夢見てリトルリーグでプレーしていた。
若葉小学校4年生の時にサッカーも始め、小学校6年生からはサッカー一筋となった。
福岡市立梅林中学校時代はサッカー部に所属し、福岡県大会優勝を経験。前田は九州選抜に選出される活躍を見せた。
高校は東京の名門校である帝京高校へ進学。
同期には後に浦和レッズで活躍する広瀬治がいた。
高校3年時に全国高校サッカー選手権に出場。決勝まで勝ち進んだ帝京の相手は2連覇を狙う清水東だった。
高校サッカー史上最多の6万2000人の観客が見守る中、前半21分、帝京主将のMF平岡和徳が意表を突き、約40メートルの長い左クロスを送る。
逆サイドに走り込んだFW前田治が右足でボレーシュートを放ち、クロスバーに当てながらゴールに押し込んだ。
これが決勝点となり帝京は1-0で4度目の全国制覇を成し遂げた。
高校を卒業後、前田治は東海大学へ進学。
当時東海大学は関東2部リーグに在籍していたが、前田は大学1年時からレギュラーとして活躍。
大学1年時に2部リーグ得点王になり、2年の時に1部昇格。
3年時には関東1部で優勝を果たす。
前田は大学4年連続で得点王とベストイレブンに輝いた。
この活躍を受けて在学時より日本代表に選出される。1988年1月27日にドバイで行われたアラブ首長国連邦戦で国際Aマッチデビューを飾る。
大学卒業後、日本サッカーリーグ1部の全日空クラブ(後の横浜フリューゲルス)に入団。
まだまだプロ契約が少なく社員選手としてプレーする選手が多い中、前田は大学時代の功績を評価されプロ契約という高待遇での入団だった。
全日空では新人ながら22試合で10得点を挙げ、得点ランキング2位に食い込み、新人王、ベストイレブンを獲得。
全日空も年間順位2位となる躍進を見せた。
この頃、前田はイタリアワールドカップ出場を目指す日本代表の若きストライカーとしてアジア予選を戦い、1989年6月11日に行われたアジア予選インドネシア戦では得点を挙げ5-0の勝利に貢献した。
順風満帆に見えたプロスタートだったが、鎖骨骨折、靭帯損傷という怪我が前田を襲う。
1年目の大活躍により相手チームに研究された事もあり、2シーズン目は3得点、3シーズン目も3得点と点が取れないシーズンが続く。
選手として限界が見えた頃、加茂周監督が全日空の監督に就任。前田はそれまでのセンターフォワードから右サイドハーフにコンバートされ、加茂周の戦術であるゾーンプレスを学ぶ。
ゾーンプレスは全員で前線からプレスを仕掛け、ボールを取りにいく戦術で選手全員に高い戦術意識と豊富な運動量が求められた。
前田はそれまで相手を背負ってボールを受けるスタイルだったが、この戦術を機に前を向いてボールを受けられるようになりプレーの幅が広がった。
そして1992年、全日空はJリーグ入りの為に横浜フリューゲルスへ改称。前田はその後もフリューゲルスでのプレーを選択する。
前田治のJリーグ入り後
前田は開幕戦となる1993年5月16日清水エスパルス戦でJリーグデビューを飾ると、アンジェロ、モネールの得点に続く3点目を挙げ3-2の勝利に貢献。
その後も得点を挙げ続け、開幕から4試合連続で得点し注目を集めた。
スピードに乗った鋭いドリブル突破も魅力ながら、ボールの落下点に絶妙に合わせる事が出来る技術は特に秀逸で、ゴール前では抜群の存在感を発揮した。
同年の天皇杯では5試合に出場し4得点を挙げ優勝に貢献した。
1994年もフリューゲルスのエースとしてアマリージャ、エドゥー、前園真聖らと攻撃を牽引し39試合に出場し11得点を挙げた。
1995年はサントリーシリーズだけで8得点を挙げる活躍を見せるが、NICOSシリーズでは控えに回る機会が増えた。
1996年には若手の吉田孝行の台頭もありリーグ戦3試合のみの出場に留まり、無得点に終わる。
横浜フリューゲルスからは世代交代の方針もあり引退を勧められる。他のクラブからもオファーが届いていたが、その後の横浜フリューゲルスとの関係性も考え前田は引退を決意する。
前田治の引退後と現在
前田は引退後、1998年から横浜フリューゲルスのジュニアユースコーチに就任。坂田大輔や田中隼磨を指導した。
横浜フリューゲルスの為に引退の道を選んだ前田だったが、同年10月横浜フリューゲルスは合併する事が発表される。
横浜フリューゲルスの将来のためにユニフォームを脱いだ前田は合併の撤回を求める署名活動にも参加したが決定事項は揺るがなかった。
1999年元日の天皇杯決勝の日、フリューゲルスは優勝を果たし消滅するが、前田はあえてその瞬間に立ち会わなかった。
自身が魂を注いだチームが優勝を果たした事は嬉しい事ではあったが、どうしても心の底から喜べなかったと語っている。
その後、前田は1999年からは横浜F・マリノスジュニアユース菅田の監督を2年間務め、現在は前田治Fサッカースクールの活動の他、テレビ解説者としても活躍している。
前田治は横浜フリューゲルスでキャリアをスタートさせ、フリューゲルス一筋でプレーをした。
もしフリューゲルスが消滅せずに残っていれば前田治が監督となり指揮をとる姿を見る事も出来ただろう。
フリューゲルスの消滅は多くのドラマを生んだが、多くの人間の人生を変えてしまったのも事実だ。
この悲劇は絶対に繰り返してはならない。