中西永輔が所属チームや日本代表において主力として活躍できたのはそのユーティリティ性が高いレベルであるからに他ならない。
サイドバックもストッパーもボランチもFWもなんでもこなした。
所属するジェフ市原には城彰二やピエール・リトバルスキーら人気選手が多かったが、中西は試合中はもちろん、ゴールを決めた後に見せるバク宙パフォーマンスでも人気を集め、紛れもなくジェフの中心選手だった。
名実共にJリーグを代表する選手、中西永輔に迫る。
中西永輔のプロ入り前
中西がサッカーを始めたのは7歳の時だ。
地元の三重県鈴鹿市の愛宕サッカー少年団というチームで技術を磨いた。
プロになりたいと思い始めたのは小学4年生の頃。
1982年のワールドカップスペイン大会を観るために夜中に親に起こしてもらって食い入るように見ていた。
高校は三重県のサッカーの強豪である四日市中央工業高校に進学。
同級生にはレフティモンスターといわれた小倉隆史がいた。
高校3年時には全国選手権で優勝を経験する。
中西が高校生の頃にJリーグが誕生。
中西のところにもスカウトがくるようになる。
どのチームに入団するか迷ったが、中西の母親の言葉が決め手となったと後年語っている。
「ジェフが一番、あんたのことを思ってくれているんとちゃうか。あんたの人生なんやから、好きなことをやりなさい」
母の言葉に背中を押され、中西はジェフユナイテッド市原への加入を決意する。
中西永輔のプロ入り後
中西は加入1年目からレギュラーとして活躍。
1年目は32試合に出場し2得点を記録した。
高い身体能力でゴール後にバク宙をするパフォーマンスは人気を集め、全国的な知名度を誇った。
1997年にはフランスワールドカップを目指す日本代表に選出。
当時の監督であった加茂周氏にはサイドバックとして起用されたが、後の岡田武史氏にはストッパーとして起用された。
フランスワールドカップの本戦メンバーにも順当に選出され、初戦のアルゼンチン戦ではクラウディオロペスのマークを担当し、仕事をさせなかった。
次のクロアチア戦にも選抜出場。安定感のあるプレーで活躍するが、イエローカードの累積により最終戦のジャマイカ戦には出場できなかった。
ワールドカップで日本は3戦全敗という成績に終わるが、中西自体の評価は高く、岡田監督の期待に応える形となった。
日本代表にはその後もコンスタントに選出され、フィリップトルシエ氏からも評価が高かった。
2大会連続となる2002年の日韓ワールドカップ出場も期待されたが残念ながら登録メンバーには選ばれなかった。
その後ジェフには2003年まで所属。
まだまだジェフでの活躍が期待されたが、30歳を越す年齢と高年俸が理由となり、戦力外通告を受ける。
2004年からは横浜Fマリノスでプレー。
2005年にはJリーグ史上10人目となる通算300試合出場を果たした。
マリノスでも貴重なベテランとして、様々なポジションで起用されたがじょじょに出場機会が減っていき、2006年に退団。
その年限りで引退を表明した。
中西永輔の引退後と現在
中西は引退後、スクールコーチに転身。
自身の経験を踏まえ、少年たちによく伝える言葉があると中西は語っている。
「誰がどこで見ているか分からないよって。もしかしたら強いチームのスカウトが見ているかもしれないから、練習でも試合でも、常に100%の力を出し切ろうよ」
中西がジェフに入団して間もない頃、コーチには後の日本代表監督となる岡田武史氏がいた。
中西は、自身のワールドカップメンバーへの選出について、岡田監督が中西の努力を見ていて、評価してくれたからだと語る。
世界を舞台に活躍する選手というのは、いつなん時も手を抜かない、中西のような選手なのかもしれない。