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中河昌彦の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第350回】

正確なキャッチングと鋭い読みで、創世記の横浜フリューゲルスや横浜マリノスなどでプレーしたGK中河昌彦。

Jリーグでの出場機会は少なかったが、安定感のある選手で所属したクラブでは非常に重宝された選手で、ベンチにいながらも持ち味の明るい性格でチームを鼓舞した。

京都商業高校時代は2度の選手権出場を達成し、国士舘大学時代ではユニバーシアード日本代表に選出された経験を持つ。

引退後も指導者として、ビーチサッカー日本代表のGKコーチを務めるなど活躍している。

中河昌彦のJリーグ入り前


中河は1969年に大阪府高槻市に生まれた。

小学校でサッカーを始め、高槻第六中学校卒業後、当時の京都府で1、2を争う強豪である京都商高へ進学。

1年次に出場した選手権では、1回戦で北沢豪のいる修徳高校にPK戦の末勝利すると、2回戦では米子東を3-1で破り、3回戦に進出するが山口高校に0-1で敗れている。

3年次に出場した選手権では、石川健太郎(柏レイソル、ジュビロ磐田など)、大倉智(柏レイソルなど)らを擁する東京都代表の暁星に0-2で敗れ、1回戦で姿を消した。

中河は高校卒業後、国士舘大学へ進学。同期には石川健太郎、吉田裕幸(ジュビロ磐田)らがいる。1学年上には野田知(横浜マリノス)、鈴木政紀(ジュビロ磐田)がおり、1学年下には新村泰彦(ジェフ市原)がいる。

大学3年次に全日本大学サッカー選手権大会で準優勝に貢献。4年次にはイングランドのシェフィールドで開催されたユニバーシアードサッカー日本代表に順天堂大学の大嶽直人(横浜フリューゲルスなど)らとともに選出された。

大学卒業後、中河は横浜フリューゲルスに入団する。

中河昌彦のJリーグ入り後

入団初年度のフリューゲルスのGKは、全日空時代のレギュラーGKである石末龍治、日産ファームから入団した佐藤浩、後に正GKとして活躍する森敦彦がいた。

その中でも中河は石末とレギュラー争いを演じ、1992年のヤマザキナビスコカップでは第1節からベンチに甘んじるも第5節の浦和レッズ戦でスタメンに抜擢される。

その後は4試合に出場、天皇杯にも2試合に出場した。

しかし1993年のJリーグ開幕後は森敦彦が正GKとして起用され、出場機会はなかった。

1996年に横浜マリノスへ移籍。

オリンピックなどで欠場の多かった川口能活の代役としての獲得だったが、1996年のシーズンはゼロックススーパーカップからスタメンで起用されると開幕戦のガンバ大阪戦でもゴールを守った。

その後第5節ヴェルディ川崎戦からは川口が起用されたため、中河はベンチでチームを支えることになったが、この年はリーグ戦16試合に出場している。

その後、1998年に京都サンガへ移籍。

経験を評価されての移籍だったが、ハンス・オフト監督の元で元日本代表GK松永成立が正GKとして起用されたため、出場機会は少なかった。

2000年に名古屋へのレンタル移籍を挟み、2001年にJ2に降格した京都に戻ると、2001年は正GKの座を獲得しリーグ戦29試合に出場し京都のJ1昇格に貢献した。

2002年には再びJ1で戦うことになったが、平井直人が起用されたために出番は限られ、リーグ戦1試合の出場に留まるとこの年限りで現役を引退した。

中河昌彦の引退後と現在

中河は引退後、GKコーチとして京都に残り、ユースチームの指導に当たった。

2006年にはU-15日本代表、2007年にはU-15Jリーグ選抜のGKコーチを務めた。

20016年からは徳島ヴォルティスのGKコーチを務めている。

中河は持ち前の明るい性格で親しみやすい選手であったことから、選手やサポーターからピーコという愛称で慕われており、今もピーコと呼ぶサポーターは多い。

GKコーチとしてだけでなく、SNSで自ら広報部長と名乗り積極的にチームの情報を公開するなどして、サポーターとの架け橋となっている中河はチームにとって大きな存在であるに違いない。

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