サンフレッチェ広島創世記のCBといえばこの男を思い浮かべる人も多いだろう。
上村健一。
オリンピック代表やフル代表としても選出され、上村は日の丸をつけて戦った。
得点能力も高かった上村はDFながらJリーグ313試合に出場して23得点を記録。
これはDFにしては驚異的な数字だ。
今でこそ得点能力の高いDFは珍しくないが、決して強豪チームではないクラブの中で得点を取り続けた上村の存在は心強かったに違いない。
上村健一に迫っていく。
上村健一のプロ入り前
小学校4年生でサッカーを始め、小学校5年生の時に広島県福山市に転居。
身体能力の高かった上村は小学校時代はFWとしてプレー。
中学校に進学後、DFに転向した。
中学校時代は全国大会を経験。
広島県立松永高等学校へ進学後は、2年時に広島県選抜に選出される。
高校卒業後の1993年にサンフレッチェ広島に入団した。
上村健一のプロ入り後
ヘディングが強く、どんな名高い相手にも怯まない上村は、加入初年度から試合に出場し続けた。
1996年にはあのマイアミの奇跡を起こしたアトランタオリンピック日本代表に選出。
予選リーグで敗退してしまったが、ハンガリー戦でロスタイム直前に交代出場をすると、直後にコーナーキックからのファーストタッチで得点を挙げるなど活躍した。
1997年にはオーストラリア代表のポポヴィッチ、ハイデン・フォックスと3バックを形成。
当時のJリーグでも屈指の守備陣を誇った。
その後もサンフレッチェ広島でプレーし、2003年まで在籍。
サンフレッチェ広島では251試合に出場した。
その後2004年にはセレッソ大阪、2005年からは東京ヴェルディでプレー。
2006年からは関東サッカーリーグ1部・横浜スポーツ&カルチャークラブでプレーを経験。
2007年から当時JFLのロアッソ熊本でプレーをし、2008年に引退をした。
日本代表での上村健一
上村は2001年には当時の日本代表監督であるフィリップ・トルシエ氏に召集され、4月のスペイン戦で日本代表デビューを飾った。
FIFAコンフェデレーションズカップ2001ではカナダ戦、ブラジル戦で先発出場。
優勝候補といわれたブラジルと0-0に引き分けに持ち込むなど貢献した。
しかしその後は召集されず、2002年の日韓ワールドカップに出場は叶わなかった。
上村は代表通算4試合出場。
上村のポテンシャルを考えると寂しすぎる数字だった。
上村健一の引退後と現在
上村は引退後の2009年にロアッソ熊本のコーチに就任。
2013年にはカマタマーレ讃岐のトップチームヘッドコーチに就任。
そして2018にはJ3に降格したカマタマーレ讃岐の監督に就任した。
2020年から広州富力(現・広州城)でコーチ。2021シーズンからは広州城U-14監督を務めている。