ブラジル代表として、3大会連続ワールドカップに出場したスピードスター・ミューレル。
1986年、若干20歳でブラジル代表としてワールドカップに出場。一瞬のスピードで相手を抜き去る高速ドリブルと、ピンポイントで合わせることが出来るワンタッチゴールを武器に数々の国際大会で活躍した。
ストライカーとしてよりも、ウイングとしての評価が高く、優れたパス能力で多くのチャンスを演出した。
1995年、柏レイソルで組んだ元ブラジル代表の盟友・カレカとの2トップは当時大きな話題となる。
ミューレルはJリーグでも旋風を巻き起こすはずだったが・・・。
ミューレルのJリーグ入り前
ミューレルは、1966年にブラジル・マットグロッソ・ド・スル州に生まれた。
ユース時代をオペラリオFCで過ごし、1984年、ミューレルが18歳の時にサンパウロFCとプロ契約を結ぶ。
サンパウロでは、後に柏レイソルでコンビを組むカレカとの2トップで、州選手権を2度制覇。1986年シーズンの選手権では、カレカとのコンビで36ゴールを奪い、優勝を経験した。
この年、ミューレルはメキシコワールドカップのブラジル代表に選出。5試合に出場しブラジルのベスト8進出に貢献するが無得点に終わる。カレカはこの大会で5得点を挙げ、リネカーの6得点に次ぐ得点ランキング2位となっている。
1987年シーズンもサンパウロでプレーし、リーグ戦15試合に出場し10得点を挙げ、得点王に輝いている。
1988-89年シーズンに、イタリアセリエAのトリノへ移籍。 トリノでは、高速ドリブルと、裏への抜け出しを武器にウイングとして活躍。2シーズン連続で二桁得点を記録する。
この活躍を受け、1990年イタリアワールドカップの代表に選出。ブラジルのFWは、カレカやロマーリオ、ベベットらがメンバー入りしていたが、ミューレルはレギュラーとして活躍。グループリーグのコスタリカ戦、スコットランド戦でそれぞれ1ゴールを決めている。しかしブラジル代表は、決勝トーナメント1回戦で、マラドーナ率いるアルゼンチンに敗れている。
1991年シーズンにサンパウロFCへ復帰。 サンターナ監督の元で、サンパウロの攻撃を牽引し、レオナルドらとともにブラジル全国選手権で優勝を果たす。
1993年シーズンのリベルタドーレス杯でも得点を挙げ、インターコンティネンタル杯でもACミラン相手に3点目を挙げる活躍を見せる。
ミューレルは、1994年のアメリカワールドカップにも順当に選出。3年連続でのワールドカップ出場となったが、控えに回るもバックアップメンバーとしてブラジルの優勝に貢献した。
1995年、ミューレルは盟友・カレカがプレーする柏レイソルからオファーを受け入団を決意する。
ミューレルのJリーグ入り後
ミューレルは柏レイソルに入団すると、1995年3月18日の開幕戦である清水エスパルス戦でJリーグデビューを飾る。3月25日の第3節ヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴールをマーク。
続く第4節横浜フリューゲルス戦では、Jリーグで初めてカレカとの2トップが実現し、ミューレルは2ゴールを決め。2-1での勝利に貢献した。
その後も活躍が期待されたが、第12節セレッソ大阪戦を最後に突然退団が報告される。家庭の事情とアナウンスされたが、一説では夫人のホームシックが理由とされている。
ブラジルに帰国したミューレルは、パルメイラスに入団。
日本での出来事や、年齢から大きな期待はかけられていなかったミューレルだが、20試合に出場し8ゴールを決め、翌年にはサンパウロへ復帰し再び二桁ゴールをマークするなど、輝きを取り戻した。
1996-1997年シーズンにはイタリアに渡り、ACペルージャと契約。しかしリーグ戦6試合で無得点に終わると、翌年にはブラジルに帰国した。
その後、サントス、バイーア、クルゼイロ、コリンチャンス、サンカエターノとブラジル国内のチームを渡り歩き、2004年に現役を引退した。
ミューレルの引退後と現在
ミューレルは現役引退後、ブラジルでサッカー解説者に転身。
2015年には、49歳でサンパウロ州4部のフェルナンドポリスと短期契約を結び、10年ぶりに公式戦に出場。リーグ戦1試合に出場し1ゴールを記録している。
ミューレルが柏レイソルを退団した理由は、家庭の事情とされているが、一説によると柏市のゴミの分別が厳しいため、ミューレルの妻がノイローゼ気味になってしまったためともと言われている。
残念ながら、Jリーグでは11試合に出場し5得点を記録しただけで退団してしまったミューレルだが、生活面のケアが万全であれば、Jリーグでもワールドクラスのプレーが見れたのかもしれない。