洪明甫は韓国代表として通算136試合に出場しワールドカップに4大会連続で出場した韓国の英雄である。
優れたキャプテンシー、高度な足元の技術、そして正確なフィードなどDFとして必要な能力を全て高水準で有しており、アジア最高のリベロという評価を受けた。
1997年に来日しベルマーレ平塚で2シーズン、1999年からは柏レイソルで3シーズンに渡ってプレー。柏ではJリーグ初の韓国人キャプテンとして奮闘した。
2002年日韓ワールドカップではアジア勢初となるベスト4入りに貢献。洪明甫はキャプテンとしての功績が評価され、アジア人初のブロンズボール賞に輝いている。
洪明甫(ホンミョンボ)のJリーグ入り前
洪明甫は1969年に韓国・ソウルに生まれた。小学校5年生の時にサッカーを始める。当時のポジションはFWだった。
中学校進学後もサッカーを続けるも身長が他の同級生に比べて低く、技術はあるが体格的に他の選手より小柄だった洪明甫は年代別代表には選出されず、候補止まりであったという。
韓国東北高等学校進学後に急激に伸び始め、卒業後に高麗大学へ進学。大学時代の1990年には韓国代表に選出されイタリアワールドカップに出場。グループリーグ全試合に3バックのスイーパーとして出場を果たした。大学卒業後、国軍体育部隊所属のサッカー団である尚州尚武FCに所属。韓国国民の義務である軍隊での二年間の服務を果たした。
服務後、洪明甫はKリーグの浦項製鉄アトムズ(現浦項スティーラーズ)へ入団する。入団後間もなくキャプテンに就任すると持ち前のリーダーシップでチームをまとめ中心選手となる。
アトムズでは不動のリベロとして活躍しプロ転向1年目にKリーグMVP、ベストイレブンに輝き、アトムズの優勝の原動力となった。
1994年にはアメリカワールドカップに出場。グループリーグのスペイン戦では1得点1アシスト、ドイツ戦でも1得点1アシストを記録するもチームはグループリーグで敗退した。
クラブチームでも1994年から3年連続でKリーグベストイレブンに選出されるなど活躍を続けていた洪明甫へベルマーレ平塚がオファーを出す。それまでは日韓関係の都合上、Jリーグ入りは難しいとされていたが、2002年に日韓ワールドカップが開催されることもあり移籍の話がまとまる。
1997年6月、洪明甫はベルマーレ平塚へ入団する。
洪明甫(ホンミョンボ)のJリーグ入り後
洪明甫は7月2日の第13節名古屋グランパス戦でボランチの位置でJリーグ初出場を果たす。続く第14節の横浜フリューゲルス戦でにも出場するが洪明甫にしては珍しく83分に一発退場となっている。
翌年は3バックの守備の柱として君臨。名塚善寛、クラウジオと強力なDFラインを形成しリーグ戦30試合に出場した。またこの年は韓国代表として3度目のワールドカップに出場するがグループリーグで敗退。
1999年は柏レイソルに移籍、Jリーグで初の韓国人選手のキャプテンに就任。3月13日第2節アビスパ福岡戦でJリーグでの初ゴールをマーク。洪の加入でレイソルの守備は安定し1stステージ、2ndステージ共に4位の成績を残す。ナビスコカップでは累積警告で決勝には出場できなかったものの柏レイソルのタイトル獲得に大きく貢献した。
2000年は同じ韓国代表の黄善洪が加入。強力な助っ人を獲得した柏は攻守の歯車が噛み合い優勝争いを演じるまでになる。惜しくも勝ち点差で優勝は逃すものの、安定した守備をみせた洪明甫はこの年のベストイレブンに選出された。
2001年は韓国代表のユーティリティプレーヤー柳想鐵が加入。シーズン前は優勝候補に挙げられるもリーグ戦では調子が上がらず、また疲労骨折を負うアクシデントもありこのシーズンをもって洪明甫はJリーグを離れる事になった。
2002年は韓国代表として4度目のワールドカップに出場。グループリーグを見事に突破し、準々決勝のスペイン戦では、Pk戦で5人目のキッカーとしてPKを成功させ、韓国ベスト4入りの原動力となった。洪明甫はアジア人初のブロンズボール賞に輝く。代表での出場はこの年が最後になる。
クラブチームでは柏レイソル退団後、古巣の浦項スティーラースへ復帰。その後はアメリカへ渡り、MLSのL.Aギャラクシーでプレー。2004年に現役を退いた。
洪明甫(ホンミョンボ)の引退後と現在
洪明甫は現役引退後、韓国の年代別代表のコーチに就任。2009年にU-20韓国代表の監督に就任すると2009年大会で同代表をベスト8に導いた。2009年10月にはオリンピック韓国代表の監督に就任。ロンドンオリンピックで韓国サッカー史上初となる銅メダル獲得の快挙を果たす。
2013年6月には韓国代表監督に就任。しかし2914年ワールドカップではグループリーグを勝ち抜けずその後、解任。 その後も指導者として活動する傍らサッカーを通じた慈善活動にも積極的に取り組んでいる。
洪明甫は紛れもなく1990年代のアジアを代表するサッカー選手の一人だった。卓越した技術もさながら、人間力が優れており豊富な国際経験を活かし、組織のリーダーとしてチームメイトをまとめた。韓国代表として初めてJリーグでプレーしたサッカー選手は盧廷潤であるが、洪明甫はKリーグから初めてJリーグへ移籍してきた選手である。
英雄の移籍を皮切りに韓国の優秀な選手がJリーグへ活躍の場を求めた。洪明甫がその大役を担った意味は非常に大きい。