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ファンルーンの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第218回】

1995年、前年のチャンピオンシップでアキレス腱断裂という大怪我を負った高木琢也の代役として加入した元オランダ代表FWファンルーン。

193センチの長身を生かし得点を量産。1stステージ第21節のジュビロ磐田戦ではすべてヘディングでハットトリックを達成した。

主にオランダ1部リーグで活躍し、フェイエノールトやアヤックスでもプレー。オランダ1部リーグ通算101得点を奪った。

しかしJリーグではその能力の高さを存分に生かしたとまでは言えず高木琢也の復活もありJリーグでは僅か1年でのプレーとなった。

ファンルーンのJリーグ入り前

ファンルーンは1965年にオランダのユトレヒトに生まれた。

ユトレヒトにあるクラブVVO’65でサッカーを始める。後にFCユトレヒトの下部組織に入り、同学年の後に3度のバロンドール(ヨーロッパ年間最優秀選手)を受賞するファン・バステンと共に将来を嘱望された。

1983年、ファンルーンが18歳の時にFCユトレヒトとプロ契約を結びプロキャリアをスタートさせる。

入団2年目の1984-1985シーズンから出場機会を増やす。3年目にはリーグ戦30試合に出場し15得点を決めた。同年にオランダ代表に選出されワールドカップ予選のベルギー戦でデビュー。

1988年にはオランダ1部リーグのローダJCへ加入。加入2年目にはキャリアハイとなるリーグ戦17得点を決めた。1990年イタリアワールドカップを戦うオランダ代表に選出され、フリット、ライカールト、ファン・バステンらと共に戦った。ファンルーンはグループリーグのアイルランド戦のみ出場。オランダはグループリーグ3戦3引き分けで辛くも決勝トーナメントに進出するも1回戦で西ドイツに1-2で敗れている。

その後はベルギーのクラブで1年プレーし1991年からアヤックス、1992年シーズン途中からフェイエノールトでプレー。

足首の怪我もありシーズンを通して満足に戦える年は少なかったが1993-1994シーズンにはリーグ戦23試合に出場し9ゴールを奪う活躍を見せた。

1995年、サンフレッチェ広島からオファーが届く。

サンフレッチェは1994年12月に行われたチャンピオンシップで絶対的エースである高木琢也がアキレス腱断裂という大怪我に見舞われ代役を探していた。サンフレッチェの監督が、所属するフェイエノールトOBのピム・ヤンセンだった事もありファンルーンは1年間のレンタル移籍に合意する。

ファンルーンのJリーグ入り後

1995年3月18日の第1節セレッソ大阪戦でJリーグデビューを飾る。元オランダ代表のハウストラ、韓国代表のノジュンユンを両サイドに置き、ファンルーンがセンターフォワードを務めた。

しかしシーズン開幕後からしばらくゴールが奪えず初ゴールは第11節ベルマーレ平塚戦まで持ち越された。この試合では2-2で迎えた後半35分に決勝ゴールを決めている。

7月1日の第21節ジュビロ磐田戦ではヘディングだけでハットトリックを達成。いよいよエンジンがかかったものかと思われた。だが度々得点は挙げるもののハウストラやノジュンユンとのコンビネーションも機能していたとは言い難く、サンフレッチェも前年のように勝ち星を挙げ続ける事は出来なかった。

2ndステージでは高木琢也が復帰を果たしポジションの重なるファンルーンはベンチに回った。高木の復活により2ndステージはほとんど出番がなくこのシーズンをもってサンフレッチェ広島を退団。

Jリーグではリーグ戦36試合に出場し9得点の成績だった。

ファンルーンはその後、古巣であるフェイエノールトに復帰し同シーズン中に降格圏内にいた古巣であるユトレヒトに移籍。3シーズン在籍しチームを降格から救った。

その後はキプロスのAPOELニコシアへ移籍するもの古傷の足首の負傷から6ヶ月プレーできず、シーズン終了後に現役引退を表明した。

ファンルーンの引退後と現在

ファンルーンは引退後、FCユトレヒトでコーチを務め、現在はジュニアユースの指導とテレビ解説者の仕事をしている。

ファンルーンのような前線でのポストプレーで攻撃の起点となったり、最終ラインからのロングボールやサイドからのクロスボールのターゲットとなるセンターフォワードの選手の能力が生きるかどうかは周りの選手や戦術次第だと思っている。

かといってターゲットマンタイプの選手にロングボールで合わせていくだけの戦術では守る側からすればそこをケアすればいいだけだからそんな楽な事はない。

現在のターゲットマンには高さやフィジカルの強さだけでなく、足元の正確さや最前線からのチェイスを行う豊富な運動量も必須だ。

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