京都サンガと横浜FCに在籍しJ2優勝&J1昇格の立役者となったアレモン。
サイドに流れてボールを受け取るとブラジル人特有の独特のリズムのドリブルで相手を翻弄し、多彩なシュートパターンでゴールを奪った。
J2リーグ出場58試合で33得点。横浜FC時代は1620分の出場で18ゴールと、およそ90分につき1点を挙げる驚異的な決定率でゴールを量産した。
しかし日本を去った翌年、アレモンは不慮の事故でこの世を去る。享年23歳。本当にこれからという時だった。
ゴール後のパフォーマンスではアレモンダンスを披露したりと明るいキャラクターで知られた人気者のアレモン。
将来有望なアレモンの早すぎる死を多くのサッカーファンが惜しんだ。
アレモンのJリーグ入り前
アレモンは1984年にブラジルのリオデジャネイロ州ノヴァ・イグアスに生まれた。
16歳の時にメキシコリーグのメキシコ中部、ハリスコ州の州都グアダラハラに本拠地を置くサッカークラブ「CFアトラス」でキャリアをスタートさせる。メキシコ代表とマリオ・メンデスと共にプレーをした。
2004年、20歳の時にブラジルのコリチーバFCと契約。コリチーバではリーグ戦28試合に出場し8ゴールを挙げる。年齢も若かった事もあり注目される存在となった。
この活躍を受け、2004年末にJリーグの京都サンガからオファーを受ける。
2005年1月、京都サンガへ1年のレンタル移籍での加入が発表された。
アレモンのJリーグ入り後
2005年3月5日、J2リーグ第1節水戸ホーリーホック戦でJリーグデビューを飾ると、その試合で初ゴールをマークし3-2での勝利に貢献した。
続く第2節ザスパ草津戦でもゴールを決め3-0での勝利に貢献。同じく2トップを組むパウリーニョとの息の合ったコンビでその後も得点を量産していく。
アレモンはこのシーズン、リーグ戦34試合に出場し15ゴールをマーク。相方のパウリーニョは22ゴールを挙げ得点王に輝いた。この強力な2トップを擁した京都は30勝7分7敗と圧倒的な強さを見せJ2優勝とJ1昇格を果たした。
168センチと小柄ながら裏へ抜け出すスピードと高い決定力を持つパウリーニョと、183センチの長身と独特なリズム感でのドリブルを得意とするアレモンのコンビネーションはJ2レベルでは止めるのは難しく、翌シーズンのJ1での京都の躍進が期待された。
年末には契約更新が危ぶまれたが、アレモンはシーズン後の謝恩会で「J1へ一緒にいきたい」と大粒の涙を見せて京都残留を希望したという。
その後、無事に京都残留を果たし、初のJ1での戦いとなる。
しかし京都は第1節の横浜Fマリノス戦を1-4、第2節川崎フロンターレ戦を2-7で落とすなど大量失点での連敗が続く。
シーズン序盤から苦しい戦いを強いられた京都サンガは、チームの状況を打破する為に新たな助っ人外国人の獲得に着手する。それに伴い、ナビスコカップではゴールを挙げていたものの、リーグ戦では前年ほどの活躍を見せていなかったアレモンは契約解除となった。
その年のシーズン途中、J2の横浜FCからオファーを受けて移籍。
横浜FCに加入したアレモンは、三浦知良や城彰二と2トップを組み、ゴールを量産していく。山口素弘、小村徳男らベテランとも息の合ったプレーを見せた。
第34節のモンテディオ山形戦では2ゴールを奪い2-1での勝利に貢献。途中出場も多かったがその後も出場した試合では高い決定率を誇り、24試合の出場で18ゴールを挙げるという驚異的な得点能力を見せた。
アレモンというゴールゲッターを獲得した横浜FCはその後も勝ち続け、首位に立つ。第51節サガン鳥栖戦ではアレモンが決勝点を挙げ、クラブ初のJ1昇格に王手を懸けた。
最終節の第52節愛媛FC戦でもゴールを決め、横浜FCの優勝とJ1昇格に大きく貢献した。
翌シーズンも横浜FCでの活躍が期待されたが、契約更新は困難を極め遂には決裂してしまう。アレモンはJリーグに別れを告げブラジルに帰国することになった。
アレモンのブラジル帰国後
ブラジルに帰国したアレモンは2007年2月にパルメイラスと契約。リーグ戦3試合に出場し全国選手権でゴールも決めるが3月4日のコリンチャンス戦で右膝靭帯を損傷。
長いリハビリを終えて夏には復帰出来る予定だった。
しかし7月8日の日曜日の深夜。父親の誕生日パーティーの帰り道中、アレモンが運転していた車がハンドル操作を誤り転倒。8人乗っていた車は全壊し、アレモンの妻や娘は助かったが衝撃に耐えられなかったアレモンと同乗していた従兄弟が即死だったという。
ここの地域は治安が良くなく、夜になると強盗を恐れてどの運転手も信号では止まらないらとの事だった。時速100キロは出ていたであろうアレモンの車は原形をとどめないほど激しく損傷していた。
このニュースは日本でも伝えられた。京都サンガ、横浜FCは球技場入り口に追悼の意を込め、献花台を設置。突然の死を惜しむ多くの関係者やサポーターが訪れ悲嘆に暮れた。
最後に所属したパルメイラスでも相変わらず陽気なキャラクターでチームの人気者だったアレモン。「いつかまたJリーグでプレーしたい」というのが口癖だったという。
ブラジルから若干20歳でやってきたストライカーは2つのクラブで大きな仕事を成し遂げた。そしてゴール後に見せるアレモンダンスは沢山のサポーターを楽しませた。いつも明るいアレモンがシーズン後に見せた大粒の涙は京都サポーターだけでなく多くの人の心を打った。
Obrigado!Alemão!
私は白い歯をむき出しにして喜ぶあなたの笑顔を忘れない。