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アコスタの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第324回】

屈強なボディバランスと柔らかなボールタッチが持ち味のセンターフォワードであるアルベルト・アコスタ。

1992年アルゼンチンリーグ得点王、1994年チリリーグ得点王・年間最優秀選手、そしてアルゼンチン代表という肩書を持ち、1996年に横浜マリノスに入団した。

アコスタ加入前年の1995年の横浜マリノスは、Jリーグ初代得点王に輝いたラモン・ディアスや、正確なフィード力を持ったサパタ、そしてアルゼンチン代表で10番を背負った経験のあるビスコンティなど、アルゼンチン人選手が躍動し、年間優勝を飾る。

しかし、21得点を挙げ、得点源として活躍したメディナベージョが退団。その後釜として獲得したのがアコスタであった。

実績は申し分ないアコスタであったが、Jリーグでは”らしさ”を発揮することが出来ず、なんとかシーズン二桁得点を記録するも、マリノスにフィットせず1年限りでの退団となってしまった。

アコスタのJリーグ入り前


アコスタは、1966年にアルゼンチンのアロセナに生まれた。

1986-1987年シーズンに、CAウニオンと契約を結び、1986年7月13日にプロデビューする。

ウニオンで2シーズンプレー後、1988-1989年シーズンに名門・サン・ロレンゾに活躍の場を移す。 ここで、後にアルゼンチン代表や横浜マリノスでともにプレーするゴロシートと出会い、息の合ったプレーでゴールを量産。2シーズン連続で2桁得点を記録する。

1990-1991年シーズンには、フランスのトゥールーズに移籍。 しかし、フランスでは思うような結果を残すことはできず、2シーズンプレーしたサン・ロレンソに復帰する。

1992-1993年シーズンの前期リーグでは、12ゴールを挙げ自身初となる得点王に輝き、この活躍が評価され、アルゼンチンの強豪であるボカ・ジュニアーズに移籍した。

ボカ・ジュニアーズで1年間プレーした後、アコスタはゴロシートと共に、チリのウニベルシダ・カトリカに移籍する。

ニベルシダ・カトリカでは、ゴロシートとともに躍動し、アコスタは得点王と最優秀選手に輝く。そして翌シーズンには国内カップで優勝を果たした。

1992年にはアルゼンチン代表に初選出され、キング・ファハド・カップ1992に出場。準決勝のコートジボワール戦でゴールを決めるなど活躍し優勝に貢献。

1995年までに19試合に出場するも、代表に定着はできずワールドカップに出場は出来なかった。

1995年、アコスタは横浜マリノスからオファーを受けて入団する。

アコスタのJリーグ入り後

海外で実績のあるアコスタの加入には大きな期待が寄せられた。

3月16日の第1節ガンバ大阪戦で山田隆裕と2トップを組み、先発出場を果たすと、さっそくJリーグ初ゴールをマーク。

176センチと上背はさほどないが、力強いドリブルと懐の深いボールキープを見ていると、前年のメディナベージョのような活躍を期待したサポーターも少なくなかっただろう。

しかしマリノスは開幕戦から5連敗と、完全にスタートダッシュに失敗する。

アコスタは、その間も先発フル出場を続けるも結果が残せない試合が続いた。 第6節のジェフ市原戦では、2ゴールを挙げリーグ戦初勝利に貢献するも、その活躍は長く続かない。

起点となるべくロングボールを放り込まれてもキープすることが出来ず、競り合いにも負けてしまうシーンが目立った。時折、強引にドリブルで切り込み、決定的なシーンを作り出すもゴールに繋がらない。 マリノスは前年の優勝が嘘のように攻守が噛み合わず、アコスタは前線で孤立した。

マリノスは最終的にリーグ8位に沈み、アコスタ自身もリーグ戦10得点に終わり、期待に応えられないまま退団することになった。

翌年の1997シーズンは、チリのウニベルシダ・カトリカに復帰し、マリノスで共にプレーしたもう一人のアルゼンチン選手であるビスコンティと2トップを組む。

アコスタは、ビスコンティとの活躍で、ウニベルシダ・カトリカはリーグ優勝を果たし、さらに、リベルタドーレス杯では11得点を記録し、得点王に輝いた。

1998年には、ポルトガルのスポルティングCPへ移籍し、2年目の1999-00シーズンにプリメイラ・リーガで22得点を記録してリーグ優勝に貢献した。

1999-2000年シーズンが始まると、アコスタはエースストライカーとしての役割を果たし、ゴールを量産し、チームを18シーズン振りのリーグ優勝に導く。

2000-2001年シーズンには、チャンピオンズリーグでも活躍。レアル・マドリードなどといった強豪と対戦し、アコスタはゴールを挙げるもグループリーグで敗退している。

2001-2002シーズンには、アルゼンチンのサン・ロレンゾに3度目の復帰。 3シーズンプレーしたが、リーグ戦では全て2桁得点を記録。37歳までプレーし現役を引退した。

アコスタの引退後と現在

アコスタは現役引退後、指導者に転身。

しかし、引退から4年後に一時的に現役復帰し、アルゼンチンのCAフェニックスでプレー。アコスタの息子であるミカエル・アコスタもサッカー選手であり、フェニックスで共にプレーを経験した。

2011年には甲状腺の癌を患うも、手術を受け見事に復帰を遂げている。

大きな期待を受けて横浜マリノスに入団したアコスタであったが、その期待に応えるような活躍が出来なかったアコスタ。

しかし、マリノスを退団した1年後にはコパ・リベルタドーレス杯で得点王に輝き、1999年にはポルトガルリーグで22得点を記録したことなどから、アコスタの得点力の高さは疑いようがない。

いくらポテンシャルの高い選手であっても、戦術や環境が合わなければ、当然ながら能力を発揮することは出来ない。当時のマリノスのチーム事情に問題があったのか、アコスタ自身が馴染めなかったのか、それは分からないが、アコスタを思うと、外国人選手には優れた個人能力だけでなく、”環境にフィットさせる能力”が重要であると感じずにはいられない。

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