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山本富士雄の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第482回】

フィジカルに強く守備的ポジションならどこでも対応できるDF山本富士雄。

28歳でJリーガーになった遅咲きの苦労人だが、正確なロングフィードを生かし創成期のベルマーレ平塚で活躍した。

現役引退後は桐蔭学園の監督を務め、数々の全国大会に出場を果たすなど名将として活躍している。

山本富士雄のJリーグ入り前


山本は1966年に神奈川県小田原市に生まれた。

小学校3年生の時にサッカーを始め、中学時代はサッカー部で活躍。

県外の強豪校やユースから誘いがある中、地元の神奈川県立小田原高等学校へ進学。
チームの中心選手として活躍するも、選手権や全国大会への出場は叶わなかった。

高校卒業後、筑波大学へ進学。
大学時代はブラジルに留学し三浦知良とともにプレーした経験を持つ。

筑波大学卒業後、JSL1部の三菱重工業サッカー部(浦和レッズ)へ入団。
1991年3月16日第15節の日本鋼管サッカー部戦で日本サッカーリーグデビューを果たした。

2年目の1992年は、第22節松下電器産業サッカー部戦で初得点をマークしたが、リーグ戦は4試合の出場に留まった。

その後、三菱重工業サッカー部はJリーグ入りを前に浦和レッズへ改称。
しかし浦和では出場機会に恵まれず、Jリーグ開幕年にJFLの日本鋼管サッカー部へ移籍した。
日本鋼管では守備の要としてシーズンを通して活躍。リーグ戦14試合に出場した。

この活躍を受け、Jリーグ参戦が決定したベルマーレ平塚へ移籍。

山本富士雄のJリーグ入り後

1994年、山本は28歳でベルマーレ平塚に入団。

入団1年目は出場機会はなかったが1995年3月11日のゼロックススーパーカップのヴェルディ川崎戦で先発フル出場を果たすと、開幕戦からレギュラーに定着。
左サイドバックとしてリーグ戦17試合に出場を果たした。
同年、天皇杯を制覇したことによって出場したアジアウィナーズカップ1995に出場。
ベルマーレの優勝に貢献した。

1996年も開幕戦の名古屋グランパスエイト戦でセンターバックとして出場。
シーズン序盤はレギュラーとして活躍するも、後の日本代表となる名塚善寛の台頭もあり控えに回ることが多くなった。
しかし守備的ポジションならどこでも対応できるユーティリティ性を発揮し、貴重なバックアッパーとして重宝された。
この年はリーグ戦10試合、ヤマザキナビスコカップ4試合に出場。

1996年シーズン終了後、契約満了が発表されこの年を持って現役を引退した。

山本富士雄の引退後と現在

山本は引退後、名門の桐蔭学園高等学校のサッカー部監督に就任。
以降10年間同部の監督を務め、インターハイや選手権、高円宮杯への出場を果たす。

その後、目黒高等学校の監督やアビスパ福岡のアカデミーコーチを担った後、中国へ渡り、アビスパ福岡と業務提携を結んだ杭州緑城のユースチームの監督を4年間務めた。

帰国後はレノファ山口のコーチを務め、2023年からは東北社会人サッカーリーグ1部のブランデュー弘前FCの監督に就任している。

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