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トニーニョの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第177回】

Jリーグ創世記を彩った外国人の中でも、トニーニョの記憶が色濃く残っている方も多いのではないだろうか。
日本サッカーリーグ最後の得点王として清水エスパルスに加入したトニーニョはハンターとして多くのゴールをネットに沈めた。

明るい性格で知られ、ゴール後のパフォーマンスも有名だ。清水エスパルス時代は飛行機パフォーマンス、浦和レッズ移籍後は自動車パフォーマンスで観客を沸かせ、当時は多くの子供が彼の真似をした。

1996年5月1日の清水エスパルス対横浜マリノス戦ではペナルティエリア外から、ラボーナでのゴールを決める。

泥臭く得点を重ねてきたトニーニョらしくないあまりにも美しいゴールだった。

そしてこれがトニーニョのJリーグ最後のゴールになるとはあの時誰も思わなかった。

トニーニョのJリーグ入り前


トニーニョは1965年にブラジルのサンパウロ州カンピーナスに生まれた。

サンパウロ州ジャウーにある、キンゼ・デ・ジャウーというクラブの下部組織で育ち16歳の時にトップデビューを飾った。

キンゼ・デ・ジャウーではチームメイトに三浦知良がいた。若手選手が出場するサンパウロ州選手権タッサ・サンパウロには2人揃って出場を果たした。

1985年、20歳の時にポルトゥゲーザへ移籍。

ポルトゥゲーザでFWや攻撃的MFを務め、1989年までプレー。サンパウロ州得点王を2回獲得した。

1989年にはブラジル代表に選出され同年のエクアドル代表との親善試合で1キャップを記録した。

1990年に同じサンパウロ州のグアラニFCへ、シーズン後半にはリオデジャネイロ州のCRフラメンゴへ在籍するも目立った活躍は出来ずにいた。

1991年、プロ化に向けて動きを進めていたJSLの読売クラブ(現東京ヴェルディ)からオファーを受け加入。同期入団には本田技研から加入した北澤豪がいた。

トニーニョはJSLが開幕すると初戦の中央防犯戦(後のアビスパ福岡の前身となったチーム)でいきなり5得点を挙げると、シーズン通して18得点を挙げる。

トニーニョは読売クラブの優勝に貢献すると共に得点王とベストイレブンにも輝いた。

尚、JSLはJリーグ開幕に伴いこの年で終了したため、トニーニョはJSL最後の得点王ということになる。

1992年、トニーニョは読売クラブからの契約延長オファーを受けるが、新たに発足した清水エスパルスへ加入する。

Jリーグ前哨戦となった1992年のナビスコカップで清水エスパルスは準優勝という成績を残す。トニーニョはこの大会で3得点を挙げてエスパルスの攻撃を牽引した。

そして1993年、Jリーグが開幕する。

トニーニョのJリーグ入り後

1993年、Jリーグ前のプレシーズンマッチでは得点王となるなどトニーニョは攻撃の起点として期待された。

1993年5月16日のJリーグ開幕戦である横浜フリューゲルス戦で先発出場を果たすと、早速Jリーグ初ゴールを決めた。

続く第2節のサンフレッチェ広島戦では決勝点を決め1-0の勝利に貢献。

第3節の鹿島アントラーズ戦でもゴールを決め、3試合連続ゴールを達成。早くも得点ランキングのトップに躍り出るも第6節のヴェルディ川崎戦で前半14分に怪我を負ってしまう。

結局この怪我の影響でリーグ戦6試合の出場に留まり、序盤の3得点でシーズンを終えた。

しかし1994年に復帰すると開幕からスタメン出場を続ける。FW永島昭浩長谷川健太の後ろに位置する攻撃的MFとして躍動し、サントリーシリーズだけで16得点を挙げる大活躍を見せた。第21節のガンバ大阪戦ではハットトリックも達成した。

しかしNICOSシリーズは監督の交代もありポジションが定まらず得点数は減少。それでもリーグ戦44試合に出場しキャリアハイとなる22得点を挙げた。

1995年も開幕戦の柏レイソル戦から得点を重ねていき、サントリーシリーズで11得点を挙げた。

続くNICOSシリーズ開幕前に浦和レッズからオファーを受けたトニーニョはレンタル移籍を果たす。

それまでエスパルスではゴール後に飛行機パフォーマンスをしていたが、スポンサーの関係で浦和時代には車を運転するパフォーマンスに切り替えた。

この事について、トニーニョはエスパルスに加入したから飛行機パフォーマンスをやっていたわけではなく、そのパフォーマンスはブラジル時代からやっており、トニーニョにとってスポンサーは関係なかったと語っている。

浦和レッズでは序盤はFWとして起用されるも、途中からドイツ人監督のオジェックによりセンターバックとして起用されるようになる。

視野が広くキープ力に優れたトニーニョを後方で起用しビルドアップしていく意図のように思えたが、トニーニョとしては満足のいくシーズンではなくこの年限りで浦和を退団。エスパルスに復帰した。

しかし1996年、エスパルスにはオリバ、マッサーロサントスという外国人選手が起用されトニーニョは出場機会に恵まれなかった。

ベンチ入り出来ない試合が続いた中で迎えた5月の第11節の横浜マリノス戦。

ペナルティエリア中央のこぼれ玉を拾ったトニーニョは意表をつくラボーナでのロングシュートを決めて見せた。

まるでそれまでの鬱憤を晴らすかのようなラボーナシュートだった。

結局、トニーニョはこのゴールを置き土産にシーズン途中でエスパルスを退団。

ブラジルに帰国後、ヴァスコダガマに所属したが給料未払いにより1996年で退団。

その後、パラナ州のロンドリーナ、サンパウロ州のマットネンセ、ペルナンブッコ州のサンタクルスと渡り歩き1999年に引退を表明した。

トニーニョの引退後と現在

トニーニョは引退後、スペインに渡り指導者としての経験を積んだ。

ブラジルに帰国後、サンパウロ州ヒベロンプレットのコメルシアルで監督に就任し2年ほどチームを率いた。

その後は地元のジュニアユース年代の育成にも携わっている。

トニーニョがJリーグで最も輝いていたのは1994年の清水エスパルス時代ではないだろうか。

最前線はもちろん、2列目としても優秀なトニーニョは攻撃を組み立てる上で欠かせないピースとなった。

得点能力だけでなく、キープ力、展開力にも優れたその器用さ故に浦和レッズでのセンターバックコンバートという事態を生んだのかもしれない。残念ながらその後のトニーニョは急激に輝きを失ってしまった。

共にエスパルスでプレーしたサントスが40歳を超えても現役を続けたように、トニーニョも清水退団後も日本に残りプレーを続けていたならばレジェンドとなっていた可能性も十分にあっただろう。

トニーニョはそれだけ得点能力に優れたストライカーであった事は間違いない。

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