名古屋グランパスエイトの初代キャプテンとして活躍した沢入重雄。
打点の高いヘディングを武器にセンターフォワードとして活躍し、1991年には日本代表にも選出された。
Jリーグ開幕後は元イングランド代表のリネカーと2トップを組み、ジョルジーニョや平野孝、浅野哲也らと名古屋の攻撃陣を支えた。
沢入重雄のプロ入り前
小学校3年生からサッカーを始める。
沢入の地元である清水市はサッカーの街とよばれるだけあり、小学校にはサッカーを教えられるコーチがおり、ナイター設備が整ったグラウンドもあったりなどサッカーをする環境が整っていたという。
中学校卒業後にサッカーの名門である清水東高校へ進学。
清水東高等学校時代は望月達也、反町康治らと共に高校総体2連覇(1980、1981年度)、高校選手権準優勝(1980年度)に貢献。
高校卒業後は法政大学へ進学。
大学卒業後の1986年に日本サッカーリーグ2部のトヨタ自動車工業サッカー部(現名古屋グランパス)へ入部した。
入団4年目には2部リーグながら29試合に出場して福田正博(元浦和)の36得点に次ぐ得点ランキング2位の27得点を記録。
トヨタの1部昇格に貢献した沢入はこのシーズンのベストイレブンに選出された。
1部昇格後は背番号8をつけ、主にセンターフォワードとして出場。
1991年には横山謙三監督により日本代表に選出され、4月4日に国立競技場で行われたソ連のスパルタク・モスクワ戦で代表デビューを果たした。
前半36分に森山泰行に代わってピッチに入るが得点を挙げることは出来ずに試合も0-0のドローに終わった。
1992年、トヨタは名古屋グランパスエイトへ改称。
沢入は初代名古屋グランパスエイトのキャプテンとしてJリーガーとなった。
沢入重雄のプロ入り後
沢入は1993年5月16日に行われたJリーグ開幕戦の鹿島アントラーズ戦でJリーグデビューを果たす。
沢入は背番号11をつけ、元イングランド代表のリネカーと2トップを組むが試合は0-5で敗れた。
第3節の横浜マリノス戦で後半32分にJリーグ初得点を記録。大雨の中で行われたこの試合はPK戦までもつれたが、沢入はPKも決め勝利に貢献した。
第8節のヴェルディ川崎戦では背番号10をつけてプレーし、前半だけで2得点を記録。当時最強といわれたヴェルディに3-1で勝利を収めた。
その後もリネカーや森山泰行、平野孝、後藤太郎、エリベウトンなどと共にFWでコンビを組むも名古屋グランパスエイトはこのシーズン奮わず、年間成績総合9位(12勝24敗)に終わった。
沢入自身はベテランとしてチームを牽引し、リーグ戦22試合に出場し6得点を記録した。
翌年のシーズンはオランダに留学していた小倉隆史の復帰や、ストイコビッチ、ビニッチの加入もあり先発出場が激減。
リーグ戦出場は11試合に留まり、得点を挙げることは出来なかった。
沢入は1995年も名古屋グランパスでプレーするも、シーズン通して無出場に終わりこのシーズン限りでユニフォームを脱ぐことになった。
沢入重雄の引退後と現在
沢入は引退後、名古屋のスタッフを経て、中京大学の監督を務め後進の指導に努めたほか、中日スポーツ評論家、東海テレビの『グランパスExpress』解説等を務めた。
2004年にはS級ライセンスを取得し、2008年からはジェフ千葉のヘッドコーチを務めた。
2010年からは中京大学サッカー部の総監督、2014年には名古屋学院大学の監督を務め、その後はカターレ富山のゼネラルマネージャーに就任し2016年まで務めた。
現在は東海学生1部リーグの名古屋学院大学で監督を務めている。
ヘディングが強く、空中戦では無類の強さを見せた沢入重雄。
残念ながら本人の年齢やチーム事情もあり、Jリーグではゴールを量産することは出来なかったが、名古屋グランパスの創世記を担った選手として記憶に残る人も多いはずだ。