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オッツェの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第85回】

ブンデスリーガで250試合に出場して67得点を挙げた黄金の左足は本物だった。

元西ドイツ代表のストライカー、フランク・オフデネビッツ、愛称は「オッツェ」。

いわゆる技巧派のストライカーで、利き足の左のみならず、右、頭でも得点を重ねた。そのプレースタイルは決して強引でも華麗でもなく、「巧い」。この言葉がしっくりくる。

オッツェはリトバルスキーや、パベルといった外国人プレーヤーと連携し、ジェフ市原のエースストライカーとして君臨。

ドイツでの実績をJリーグでも見せつけ、オッツェはJリーグ2代目得点王としてその名を残した。

オッツェのJリーグ入り前


オッツェは1965年、ドイツのニーダーザクセン州のドルフマルクに生まれた。

16歳の時に地元のドルフマルクからブレーメンの下部組織に入る。

1983年、18歳の時にブンデスリーガ、ブレーメンからトップデビューを果たす。

ルーキーイヤーはリーグ戦5試合に出場し無得点に終わった。

チームメイトにはドイツ代表でブンデスリーガ得点王にもなったルイス・フェラーや日本代表の奥寺康彦がいた。

プロ5年目の1987-1988シーズンは30試合に出場し15得点を記録。自身初の二桁得点をマークした。この年、ブレーメンはオッツェの活躍もありブンデスリーガ優勝を果たす。

尚、この年の1988年5月のケルン戦では、優勝が懸かった大一番でオッツェはペナルティエリア内でハンドをしてしまい、オッツェは主審に対して、ハンドを自己申告。

試合は0-2で敗戦したが、オッツェはそのことで、国際サッカー連盟からフェアプレー賞を贈られた。

1989シーズンからはその宿敵、ケルンへ移籍。

二桁得点を挙げたシーズンは1991-1992年シーズンのみとなったが(35試合に出場、11得点)、オッツェはケルンでもレギュラーのFWとして4シーズンプレーをした。

そして1993年、ケルンで共にプレーをしていたリトバルスキーからの誘いがあり日本行きを決意。

オッツェはJリーグのジェフユナイテッド市原へ移籍する。

オッツェのJリーグ入り後

オッツェは1993年7月24日清水戦、2ndステージ開幕戦にてJリーグデビューを果たす。

3戦目の名古屋戦で早くも2ゴールを決めJ初ゴールをマークすると、その後も浦和レッズ戦やガンバ大阪戦で2ゴールずつ挙げる活躍を見せる。

また、ナビスコ杯でも6試合で3ゴールと活躍を見せるものの、ジェフは予選リーグで敗れてしまう。

Jリーグ1年目はリーグ戦15試合に出場し7得点(ナビスコカップ6試合3得点)。

まずまずの活躍はしたものの、オッツェの実績からすれば本領を発揮したとは言い難いシーズンだった。

2年目のシーズンは新人の城彰ニと2トップを形成。

オッツェは開幕戦から2点決めたのを皮切りにゴールを量産する。

2ndステージ開幕戦のガンバ大阪戦ではハットトリックをマークし、ヴェルディ川崎(現東京V)、横浜マリノス(現横浜FM)、鹿島など強豪からゴールを奪う見事な活躍を見せ、鹿島のアルシンドの28ゴールを抜いて得点王になる活躍を見せた。

この年、オッツェは得点王を獲得しながらも、Jリーグベストイレブンに選出されなかった。代わりに選出されたのはサントリーシリーズ優勝のサンフレッチェ広島から高木琢也、ニコスシリーズ優勝のヴェルディ川崎から武田修宏だった。

これは、2016年シーズン得点王のピーター・ウタカがベストイレブンに選出されないまで、Jリーグ史上唯一の出来事であった。

オッツェは家庭の事情により、惜しまれつつもこのシーズン限りでジェフを退団。

Jリーグ通算55試合で37ゴールという驚異的な数字を残した。

ドイツに戻ったオッツェはブンデスリーガのハンブルガーSVへ移籍するも、2シーズンで1ゴールという成績に終わる。

1996年にはまたもリトバルスキーに誘われる形でJFLのブランメル仙台(現ベガルタ仙台)に移籍。

1シーズンのみのプレーとなったが、リーグ戦28試合に出場し20得点という記録を残し、格の違いを見せた。

その後はドイツに戻り、アマチュアクラブでプレーを続け現役を退いた。

オッツェの引退後と現在

オッツェは現在、古巣であるブレーメンの強化担当に就任している。

2011年5月にはドルトムントで行われた東日本大震災復興支援の慈善試合にJリーグOBとして出場したり、日本のメディアのインタビューに応えたりなど、オッツェと日本との関係は続いている。

リトバルスキーやマスロバルなどという素晴らしいパサーがいたとはいえ、下位に沈んでいたジェフで28得点を挙げることは容易ではない。

オッツェのペナルティエリア内での、いわゆるオフザボールの動きは他のFWと比較しても頭ひとつ抜けていた。

海外で実績のある選手が晩年にJリーグでのプレーを選択するケースは今後も続いていくだろう。

しかしオッツェのように結果を残すことは簡単なことではない。

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