Jリーグ開幕当初を代表する外国人として、盧廷潤の名前を挙げる人を多いだろう。
「失敗したら二度と韓国には戻れない。そんな覚悟で日本の土を踏んだ。」
彼はJリーグ入り当初、母国である韓国で「裏切者」と罵られた。
それでも彼は戦い続けた。
Jリーガーとして。
韓国代表として。
今回はそんな魂の男『盧 廷潤』に迫っていく。
盧廷潤(ノジュンユン)のプロ入り前
日韓戦はサッカーとは関係のない歴史や政治が持ち出され、異様な雰囲気がスタジアムを包み込む。韓国では“日本サッカーは格下”と見なす時代で、韓国から日本への移籍はタブーとなっている。
そんな時代だった。
盧廷潤は1971年、韓国の京畿道仁川市(現・仁川広域市)に生まれた。
幼いころからサッカーボールを追いかけ、韓国の富平高等学校から高麗大学校へ進学。
大学在籍中の1990年には韓国代表に招集を受ける。
将来を羨望された若き盧廷潤は大学卒業後のKリーグドラフトで油公(現済州ユナイテッドFC)に指名されたが、以前からオファーの届いていたJリーグのサンフレッチェ広島に入団を決意する。
韓国の将来を担うであろう選手の日本への移籍は当時韓国で大きく取り上げられ、非難された。
盧廷潤の移籍の理由はいたってシンプルだった。
「ジーコ(元ブラジル代表)やリネカー(元イングランド代表)がいる日本で自分の力を試したい」
それだけだった。
韓国人初のJリーガーとなった盧廷潤だが、
Jリーグでの年俸は当時の大物外国人より格段に安かった。
生活の為に広島市内のスーパーのタイムセールに通う日々。
生活費を切り詰めながら年俸の多くを両親に仕送りしていた盧廷潤だが、「金のために日本に媚を売るのか」とも罵られたと語っている。
盧廷潤(ノジュンユン)の日本での活躍
それでも盧廷潤はサンフレッチェ広島でJリーグ開幕時から不動のレギュラーの座をつかむ。
疲れを知らない底なしのスタミナで、白い歯をむき出しにピッチ内を駆け回る。
サンフレッチェの1994年サントリーシリーズ(1stステージ)優勝に貢献。
サンフレッチェでは背番号「9」を背負い、当時の日本代表FWの高木琢也やチェコ代表のハシェックとともに前線を支配した。
サンフレッチェには5年間在籍し、リーグ戦138試合出場。36得点の成績を残す。
1998年にはオランダ1部リーグのNACブレダへローン移籍。
NACでは25試合に出場し1得点を記録した。
そして1999年の1stステージからセレッソ大阪に加入。
セレッソでは背番号10を背負い、守備的MFを任された。
盧廷潤の最大の武器であるスタミナを存分に生かして戦った。
セレッソは2000年の1stステージで2位という成績を残したが、盧廷潤はその立役者として評価された。
その後、2001年にアビスパ福岡でプレー。
2003年からは韓国に活躍の場を移し、釜山アイコンズ(現:釜山アイパーク)に入団。
翌年のFAカップ優勝に貢献した。
2005年からは蔚山現代でプレーをして、35歳で引退をした。
韓国代表としての盧廷潤(ノジュンユン)
盧廷潤の回想で忘れられないシーンがある。
1993年。W杯米国大会アジア最終予選。
あの「ドーハの悲劇」が起きた年だ。
アジア最終予選で盧廷潤擁する韓国は日本に敗れた。
この敗戦で韓国は自力での本戦出場はできなくなった。
逆に日本は最終戦で勝てば悲願の本大会出場が可能になった。
ほとんどの韓国の選手が悔しさのあまりに取材を拒否してスタジアムを去る中、盧廷潤は日本のカメラに向かって、こう声をかけたのだ。
「おめでとう。日本チーム頑張れ」
こんなエピソードもある。
日本代表と同じホテルに宿泊していた韓国代表。
日本と一緒にW杯に出場したい、心からそう願っていた盧廷潤は日本代表の選手たちにキムチや焼肉を差し入れをしたり、アドバイスを送った。
「お互い不慣れな土地で頑張っている中、広島で一緒だった選手もキムチが好きだったのを思い出したから」
盧廷潤の人柄が分かる出来事だ。
しかし、韓国が日本に敗れたことについて、当時の韓国代表監督である金皓氏は「盧廷潤が日本代表のスパイであったせいで韓国は負けたのだ」と、一連の盧廷潤の行動をテレビカメラの前で批判した。
それ以降、盧廷潤は韓国全土にスパイの汚名を着せられることとなってしまう。
しかし盧廷潤はそれにめげずに、韓国代表としてW杯米国大会、そして4年後のフランス大会に2大会連続で出場を果たした。
盧廷潤(ノジュンユン)の引退後と現在
盧廷潤は35歳で現役を引退。
アメリカに渡り、指導者として勉強を重ねた。
現在は韓国に住み、ビジネスを展開している。
順風満帆ではなかった現役時代。
激しい時代の流れの中で、盧廷潤自身の好意がパッシングを受けてしまったこともあった。
しかし、盧廷潤は日本のサッカーファンに深く愛された。
現在は韓国人選手が当たり前のように日本に移籍をする時代になったが、それは盧廷潤の日本と韓国を繋げた功績があってのことだという事を忘れてはならない。