1対1で強さを発揮するサイドアタッカー森岡茂。
初期のガンバ大阪では左サイドのウイングとして活躍しアトランタオリンピック日本代表に選出。
京都パープルサンガ、ヴィッセル神戸と渡り歩き、現役晩年に古巣のガンバ大阪へ復帰後は左サイドのスペシャリストとして、アトランタ時代から知る西野朗監督に重宝された。
2005年、長らく所属したガンバ大阪のリーグタイトル獲得を見届けて退団。
森岡茂はJリーグ210試合に出場し22得点を挙げた。
森岡茂のプロ入り前
新谷小学校入学後にサッカーを始め、新谷中学校に進学。
中学卒業後は愛媛県立八幡浜工業高等学校に進学。
高校3年時に出場した全国高校サッカー選手権愛媛県大会の決勝で、大会6連覇を狙う南宇和を破り全国大会に出場。この県大会決勝では森岡自らゴールを挙げるなど、勝利に貢献した。
全国選手権の初戦の山形中央戦。森岡はハットトリックを達成する活躍を見せたものの試合は3-3からのPK戦で敗れている。
森岡は高校卒業後の1992年にガンバ大阪に入団する。同期入団は礒貝洋光、平岡直起、佐藤慶明、梶野智幸らがいる。
森岡茂のプロ入り後
ガンバ大阪入団2年目の1993年にJリーグが開幕すると12月8日NICOSシリーズ第17節清水エスパルス戦でJリーグ初出場を果たす。
1994年は開幕からスタメン出場。その後にレギュラーを勝ち取り、4月9日サントリーシリーズ第8節鹿島アントラーズ戦でプロ初ゴールを決め、第10節横浜マリノス戦でも貴重な先制ゴールを奪うが両試合とも接戦の末、2-3で敗れている。
アレイニコフや礒貝洋光からのパスを受け取ると左サイドを高速ドリブルで華麗に駆け抜け、クロスを上げる攻撃パターンは当時のガンバ大阪の戦略の1つとなった。この頃、U22日本代表に初選出されている。
1995年は前後期合わせてリーグ戦52試合を戦う苦しいシーズンとなったが、森岡はリーグが45試合に出場、5得点を挙げている。
1996年、アトランタオリンピック日本代表に選出される。第1戦、第2戦は出場がなかったものの第3戦のハンガリー戦に先発出場を果たす。
試合は3-2で日本は勝利したものの得失点差でグループリーグ敗退となった。
その後もガンバ大阪のサイドを担うも、1998年はリーグ戦13試合の出場に留まりこの年をもってガンバ大阪を退団。京都パープルサンガへ移籍する。
京都では背番号7を背負い、三浦文丈とともに高速ドリブラーとして攻撃のアクセントとなり第2節横浜Fマリノス戦では移籍後初ゴールを奪う。黒崎比差支と2トップを組むなどシーズン序盤は先発出場が続いたが徐々に出場機会を失い、シーズン後半はベンチ入りが出来ない試合が続いた。森岡はこの1シーズンで京都を退団。翌年はヴィッセル神戸へ移籍。
ヴィッセル神戸には2シーズン在籍したが、2年でリーグ戦18試合の出場に留まる。
2002年に西野朗監督のいるガンバ大阪へ復帰。
加入後、攻撃的な右ウイングとしてレギュラーを獲得。1stステージのガンバ大阪の快進撃を支えた。右の森岡、左の新井場徹のサイドからの攻撃でいくつものゴールが生まれる。
2003年以降は膝の故障もあり、橋本英郎にレギュラーを奪われ出場機会が減少するも、出場した試合ではスピードのあるドリブルでサイドを駆け上がり、中央の大黒将志やフェルナンジーニョと連動。ベテランの域に達していたが存在感を発揮した。
2005年、ガンバ大阪念願のリーグ優勝を見届け退団。
2006年関西リーグ1部・バンディオンセ神戸(現:バンディオンセ加古川)に加入。
2007年関西サッカーリーグリーグディビジョンベスト11とアシスト王に、2008年には前年に続きベスト11に選ばれた。
2008年7月20日KSL後期第7節vsアイン食品との試合。2-1勝利で勝利、13勝1分無敗という成績で今季のリーグ戦を終了。試合終了後に引退発表。
これが森岡の現役最後の試合となった。
森岡茂の引退後と現在
森岡茂は引退後、Jリーグ入りを目指すFC大阪の監督に就任。2015年までチームを指揮した。
2017年、森岡はサッカースクールなどで指導を続ける傍ら、病気を患う義母と認知症を患う義父の介護を行う毎日を過ごしている事をブログで報告。2018年に義母が他界後は、スクールの仕事を続けながら入院する義父の見舞いを続けブログでその様子を公表している。
介護は誰しもが訪れるものであり現代の日本社会が抱える大きな課題だ。かつては日本の代表としてオリンピックを戦った選手でさえもこうして直面したこの問題はもはや他人事ではない。
到底、僕なんかには想像も出来ない程多くの辛さや苦しさがあるのだと思う。
いつか訪れるその時に僕はどれだけの動きが出来るだろうか。
家族にはいつまでも元気でいたほしいと思うのは当然の事であるが、いつか訪れるその時に備えて準備と覚悟は必要だと強く思う。家族は何があってもずっと家族なのだから。
壮絶な日々を送りながらも明るく介護の近況を報告する森岡の文章で勇気づけられた人は多いのではないだろうか。