185センチという長身を生かした打点の高いヘディングだけでなく、両足から放たれる弾丸ライナーのシュートも黒崎比差支の大きな武器だ。
ポストプレーもこなし、最前線のタワーとなり鹿島アントラーズやアルビレックス新潟など在籍した5チームでは攻撃の核として数々のゴールを奪った。
日本代表としても24試合に出場して4得点を挙げる。中でも1995年のダイナスティカップでは大会得点王となる活躍を見せた。
またFWとしてだけでなく、2列目の選手としてのチャンスメイクにも長けており、隙があればミドルレンジから強力なシュートも放てる。
辛口評論家として有名なセルジオ越後でさえも若き日の黒崎比差支を「将来必ず代表に入る選手」と賞賛した程、ポテンシャルの高い大型FWであった。
黒崎比差支(久志)のプロ入り前
黒崎は1968年栃木県上都賀郡粟野町(現鹿沼市)に生まれた。
小学生でサッカーを始め、栃木県の選抜メンバーにも選ばれるなど早くからその才能は注目を集めた。
中学卒業後宇都宮学園高等学校(現文星芸大付高)へ入学。1つ上に小泉順嗣、1つ下に根岸誠一がいた。
2年生の時に全国高等学校サッカー選手権大会に出場。
帝京高校を下してベスト4に進出し黒崎は5得点で大会得点王となった。
3年生でもキャプテンとしてチームを率いて全国高等学校サッカー選手権大会に出場。
準決勝進出をかけた準々決勝で室蘭大谷(現:大谷室蘭)との対戦だった。室蘭大谷には財前恵一、野田知がおり、優勝候補同士の激しい戦いであった。試合は0-0で決着がつかずにPK戦に突入。双方とも5人が決め、サドンデスでも誰一人失敗しないまま15人目宇都宮学園のキックを室蘭大谷が止めて決着。PK15-14で惜しくも敗退となるが高校サッカー史に残る激闘となった。
185cmという恵まれた体格を持ち、強いフィジカルとシュート力もあり、力強いヘディングは黒崎の大きな武器となった。
高校卒業後の1987年、本田技研(現ホンダFC)に入団。同期には古川昌明、北澤豪がいた。
本田技研でも入団1年目から出場の機会を掴み、入団3年目にはリーグ戦11得点を挙げ得点ランキング4位に入る活躍を見せる。
この活躍を受けた1989年には日本代表に招集され、アウェーでの日韓戦で代表デビューを飾る。
同年のワールドカップアジア予選のインドネシア戦では代表初ゴールをマークした。
しかし1992年本田技研はJリーグへの不参加を表明。当時から慕っていた宮本征勝や1年後輩の本田泰人らと共に鹿島アントラーズに同時移籍した。
この頃、縁起を担ぐため黒崎 久志から黒崎 比差支へ改名している。
黒崎比差支(久志)のプロ入り後
Jリーグが開幕しても黒崎比差支の活躍は続く。
迫力あるシュートと打点の高いヘディングで開幕から3シーズン連続で二桁得点を挙げるなど、同じタイプの長谷川祥之と共に日本を代表する鹿島のツインタワーとして活躍Jリーグ黎明期の鹿島を牽引した。
日本代表としても、オフト監督から招集され、ワールドカップアジア予選を戦う。ドーハの悲劇はベンチメンバーとして経験した。
1995年香港で行われたダイナスティカップではイタリア・セリエA移籍で不在だった三浦知良の代役を務め、4点を決め得点王になる。黒崎の活躍で日本の連覇に貢献した。
1998年京都パープルサンガに移籍。
その年自己新の13得点をマークし、サンガのJ1残留に大きく貢献。J昇格後サンガ初のハットトリックを決める。
翌シーズン当初は主将も務めたが、途中右アキレス腱部分断裂し、長期戦列離脱を経験。12月の天皇杯4回戦の清水エスパルスで約半年ぶりに復帰を果たした。
身体能力を生かしたポストプレーや、破壊力のあるシュートで攻撃陣をリードするエースストライカーとして活躍したが2000年にヴィッセル神戸へ移籍となる。この時、登録名を本名の『黒崎久志』に戻す。
2001年新潟アルビレックス新潟へ移籍。
2001年J2第12節新潟スタジアムでの京都パープルサンガとの試合。
圧倒的な戦力を有する京都に、前半19分、黒崎が反転から見事な先制ゴールを決めた。28分にも再び相手を突き放す2点目を叩き込む。結果的に4-3で敗戦を喫することとなるがこの試合がアルビレックス新潟サポーターを一丸とさせる試合となった。
黒崎は新潟在籍中44試合に出場しチームトップの21得点を挙げた。
2002年大宮アルディージャに移籍。
背番号10を背負い、ベテランとしてチームを牽引。得点数は減少したが前線で身体を張るなど攻撃の起点となった。
2003年シーズン終了後17年の選手生活にピリオドを打った。
黒崎比差支(久志)の引退後と現在
黒崎は引退後、鹿島アントラーズでコーチ、アルビレックス新潟でコーチ、監督を務めた。
その後、大宮アルディージャでコーチを務め、現在は鹿島アントラーズのトップチームコーチを務めている。
2021年2月には、中国超級リーグ・山東泰山の監督に就任したハオ・ウェイに請われ、同ヘッドコーチに就任している。
黒崎比差支は超高校級ストライカーとして名を馳せ、若干20歳でフル代表デビューを飾るなどその能力の高さは早くから嘱望された。
ゴール前での空中戦の強さは日本人トップレベルであるが、何より左右どちらの足からでも放てるシュート力は黒崎の大きな魅力であった。
残念ながら同年代の三浦知良や高木琢也、中山雅史の活躍により日本代表としては少し物足りない成績に終わってしまったが、Jリーグ通算99得点を挙げた黒崎比差支の得点能力の高さは疑いようのないものであり、生まれてくるのがもう少し遅ければ日本のエースとなっていたのではないだろうか。
そう想像させるほど黒崎比差支のポテンシャルの高さは群を抜いていたと感じる。