日本代表の10といえば誰もが認めるエースナンバーだ。
ラモス瑠偉や名波浩、中村俊輔に香川真司、中島翔哉。
10を背負った誰もが国民からの期待を背負い、ピッチの上で戦った。
1994年10月のアジア大会。
ドーハの悲劇を乗り越え、元ブラジル代表のファルカン氏を監督に迎えた日本代表。
当時まだ若手だった岩本輝雄に用意された背番号は「10」だった。
しかし、期待された岩本輝雄の代表での活動は半年ほどで終わりを迎えてしまう。
岩本輝雄に何があったのか。
岩本輝雄のプロ入り前
瀬ヶ崎S.Cでサッカーを始め、六浦中学校に進学。
横浜商科大学高等学校を経て1991年にフジタサッカークラブ(現湘南ベルマーレ)へ入団する。
その後、フジタサッカークラブはJリーグ入りを見越してチーム名をベルマーレ平塚に変更。
岩本は加入初年度、背番号13を背負い、1年目ながら22試合に出場、7得点を記録する。
岩本の活躍により、フジタサッカークラブは1993年のJFLで優勝。
ベルマーレは翌年のJリーグ入りが決定した。
岩本輝雄のプロ入り後
岩本はベルマーレで攻撃的左サイドバックとしてプレー。
右サイドバックの名良橋晃とともにベルマーレの攻撃を支えた。
岩本、名良橋らサイドバックを起点としたダイレクトプレーで相手守備陣を切り裂く攻撃は、「ベルマーレ旋風」といわれ、恐れられた。
1994年はベルマーレで天皇杯の優勝を経験。
この活躍が認められ、当時の日本代表監督であるファルカン氏に初召集を受ける。
1994年5月のオーストラリア戦で代表デビューを飾った。
そして7月のガーナ戦では代表初得点を記録する。
そして10月のアジアカップではファルカンから背番号10を託される。
岩本は後年、インタビューでこのことをこう語っている。
「(背番号10について)ノボリさん(澤登正朗)だと思っていたし、自分の番号ではないっていう感覚でしたね。それでも期待してもらっている以上、つけるしかなかった。」
しかし背番号10を背負った岩本のコンディションはなかなかあがらず、先発出場から外れていく。
そしてついには代表からも声がかからなくなり、アジアカップ準々決勝敗退の責任を問われ
ファルカン氏が解任されるとともに、岩本も代表から離れた。
その後、岩本は1995年にブラジルに短期留学をする。
しかし、このとき負った右足の怪我が後年まで岩本を苦しめることになる。
復帰したベルマーレでも左足靭帯を損傷。
故障の影響でベルマーレでは満足のいく結果が得られず、岩本は移籍を繰り返していく。
1998年は京都パープルサンガ(現京都サンガ)、1999年は川崎フロンターレ、2000年はヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)でプレーするも、全盛期のプレーには程遠く、満足のいく結果は得られなかった。
2001年からは当時J2のベガルタ仙台に加入。
移籍1年目は34試合に出場し5得点を記録するなど、復活の予感を感じさせた。
べガルタ仙台は岩本の活躍によりJ1に昇格。
2003年には岩本が決めた40m級のフリーキックは、Jリーグベストゴールアワードにノミネートされるほどのスーパーゴールだった。
そして2004年には名古屋グランパスエイトと契約。
しかし、ここで岩本は右足首靭帯断裂という大怪我を負う。
この怪我により岩本は歩行が困難になるほどの損傷を負い、2回手術をするもピッチに戻るまでの改善は見られず名古屋を退団した。
誰もが岩本の引退を予感していた。
しかし岩本は諦めなかった。
名古屋を離れてから所属チームもなく1年以上経過していた2006年。
岩本はニュージーランドのオークランド・シティと契約。
2年ぶりの現役復帰を果たした。
岩本はその年行われたFIFAクラブワールドカップの2試合に出場。
その後正式に現役を引退した。
岩本輝雄の引退後と現在
その後、岩本輝雄はワタナベエンターテインメントと契約を結び、タレント活動を開始。
バラエティ番組への出演と並行して、ベガルタ仙台のアンバサダーとしてサッカー関連の仕事もこなしている。
しかし私はまだひそかに期待してしまう。
突然、岩本がまた現役に復帰してピッチに帰ってくるのではないかということを。