2002年日韓ワールドカップ。空前のフットボールフィーバーが巻き起こる中、日本では2人のスターが脚光を浴びた。
イングランドのキャプテンであるデビット・ベッカム。そして、トルコの貴公子ことイルハン・マンスズ。
日本では無名の存在だったイルハンは彗星の如く現れ、ワールドカップでトルコ代表を3位に導く3ゴールを決めるとその端正な顔立ちも相まって一躍時の人となった。
日本限定発売の写真集やDVDが飛ぶように売れ、日本のCMに出演が決まる。週刊誌やワイドショーでは特集が組まれ、イルハンに会いに行くツアーも登場。サッカーを知らない人もイルハンは知っているという現象が起きた。
そういう意味で何より流行に敏感な日本においてイルハンが移籍金5億円、年俸3億5000万円という当時のJリーグ史上最高年俸でヴィッセル神戸へ加入するというのも自然な流れだったのかもしれない。
イルハンのJリーグ入り前
イルハンは1975年にトルコ国籍のドイツ移民2世としてドイツのバイエルンに生まれた。
ドイツのアマチュアクラブでプレー後、19歳の時に1.FCケルンのユースに在籍。
その後、トルコに渡りトルコリーグ1部のゲンチレルビルリイSKに加入。しかし半年で2試合、計80分出場したのみで活躍機会を与えられることはなく、また椎間板ヘルニアを患うなど、失意の内にドイツに帰国した。
しかし翌年、再びトルコに渡り2部リーグのクシャダススポルと契約するとリーグ戦37試合で19得点を挙げる活躍を見せる。
その翌年にはトルコ1部リーグのサムスンスポルからオファーを受け移籍。3シーズンレギュラーとして活躍後、同リーグ強豪のベシクタシュJKへ移籍。リーグ戦30試合で21得点を挙げトルコリーグ得点王に輝いた。
この活躍を受け、イルハンは2001年にトルコ代表に初選出されワールドカップ予選に出場。
翌年のワールドカップメンバーにも選出され、控え選手ながら準々決勝の対セネガル戦の延長戦で出場、決勝点となるゴールデンゴールを決めるなど、このチームの最多となる合計3得点を挙げ、トルコの3位躍進に貢献した。
この彗星の如く現れた甘いルックスのワンダーボーイに日本のマスコミは注目。イルハンはたちまち日本で大人気となり、日本限定発売の写真集やDVDが爆発的に売れた。ファンクラブが設立されトルコまでイルハンに会いに行くツアーを企画する旅行会社まで現れた。
そしてワールドカップ後もベシクタシュJKでプレーしていたイルハンにヴィッセル神戸から獲得のオファーが届く。
ヴィッセル神戸には日本のスター選手である三浦知良がおり、キングカズと貴公子イルハンの夢の2トップの実現に向けてヴィッセル神戸は10億円近い獲得金を用意し破格のオファーを提示する。
ワールドカップから2年近くが経っていたが、イルハンの日本での人気は衰えておらずこの獲得は連日新聞やニュースを騒がせた。
そして2004年2月、移籍金5億円、年俸3億5000万円の2年契約でイルハンは28歳という年齢でヴィッセル神戸に加入する。
イルハンのJリーグ入り後
イルハンの来日時は成田空港に多くのマスコミが押し寄せ、数多くの女性ファンが訪れた。
純白のスーツ姿で臨んだイルハンの入団会見は生放送で特集を組まれるなど人気は絶大なものであった。
三浦知良もイルハンの加入について「良かったと思う。彼の加入はチームの為になると思う」と語った。
2004年3月13日Jリーグ第1節ジェフ市原戦でイルハンはJリーグデビューを果たす。
神戸ウィングスタジアムには当初の予想を上回る29835人が訪れ試合開始前の開幕セレモニーは盛大に行われた。
三浦知良と2トップを組んだイルハンは持ち味である縦への力強くも速い突破でチャンスを作る。連携面では不安があったものの積極的に攻撃を仕掛け、この試合最多となる5本のシュートを放った。
続く第2節のアルビレックス新潟戦にもフル出場を果たしコンディションは徐々に整っていくかのように思えたが、この試合後に右膝の違和感を訴えた。
イルハンは治療のため日本を離れ、主治医のいるイタリアへ離日し半月板の手術を受ける事になった。
術後の回復は思わしくなく、来日が大幅に遅れ5月にようやく来日すると6月12の横浜Fマリノス戦で途中出場を果たす。
しかしその後再び膝の痛みを訴え、クラブに無断で帰国。イルハンはクラブ側による再三の来日要請に応じず、帰国の意思を見せなかった。
その後、弁護士も介入するが問題は長引き8月になってようやくイルハンの退団がクラブ側から発表された。
その後イルハンはドイツ1部のヘルタベルリンに加入するも出場機会が無く同年6月にヘルタ・ベルリンも退団。
次いで7月にトルコのMKEアンカラギュジュへ入団したが、翌2006年1月に退団し8月に現役引退を表明した。
イルハンの引退後と現在
イルハンは現役引退後、フィギュアスケートを始める。
このイルハンの新たな挑戦は日本を含め各国で紹介された。
2013年ネーベルホルン杯にはトルコ所属のペアとして初めて国際大会に出場し19位の成績を残している。
2015年にはポーランドで開催されたメンターネスレネスクイックトルン杯に出場し5位に入賞した。
その後サッカー界に復帰し古巣であるベシクタシュJKのコーチに就任したが健康上の理由で退団している。
イルハンは神戸でリーグ戦3試合の出場でノーゴールに終わった。
フル出場は僅か1試合。ここに書くまでもなく残念ながらイルハンの獲得は戦力にはならなかった。
イルハンがワールドクラスの活躍を見せたのは2001年のトルコリーグ得点王から2002年のワールドカップでの活躍までと短い。
イルハン自身、Jリーグが初の海外移籍であったし、残念ながら実力以上に過大評価をされた人気先行の移籍となってしまった事は否めない。
当時の神戸がどこまでイルハンを戦力として見込んでいたかは分からないが、僅か3試合で退団されるとは思ってもいなかっただろう。
他にも鹿島アントラーズのベベットや柏レイソルのミューレル、清水エスパルスのユングベリなど世界的な評価を受けた名選手がJリーグでの活躍はおろか、数試合に出場したのみでシーズン途中に去ってしまうケースは少なからず存在する。
残念ながらトルコの貴公子はJのピッチで輝く事は出来なかった。