DFからFWまで幅広いポジションでプレーが出来る、オールラウンドプレーヤー堀孝史。
1990年に東芝に入部すると翌年には、監督の横山謙三により見いだされさっそく日本代表に選出された実績を持つ。
Jリーグ開幕当時、所属していた浦和レッズではボランチとして定着し、攻守のつなぎ役として安定したプレーでチームを支えた。
引退後も、2017年に古巣浦和レッズの監督としてACLを制覇。AFC年間最優秀監督賞に輝いている。
堀孝史のJリーグ入り前
2歳上の兄の堀直人(横浜フリューゲルス)の影響で小学校の時にサッカーを始める。
中学卒業後、強豪の神奈川県立鎌倉高等学校へ進学。1学年上に公文裕明(ベルマーレ平塚)、同学年に本吉剛(浦和レッズ)がいる。
1年次と3年次に選手権に出場。3年次はチームのエースとしてチームを牽引。1回戦で作陽を1-0で、2回戦で東海大五を1-0で破りベスト16に進出に貢献。
3回戦ではベスト8入りをかけて真田雅則(清水エスパルス)、江尻篤彦(ジェフ市原)を擁する清水市商と対戦するも0-2で敗れた。
高校卒業後は明治大学に進学。大学の同期には江尻篤彦がいる。
大学時代は総理大臣杯ベスト4入りに貢献した。
明治大学卒業後の1990年、JSLの東芝堀川町サッカー部(後のコンサドーレ札幌)に入団する。
東芝ではルーキーイヤーから攻撃的ポジションで起用され、活躍を見せる。
リーグ戦全試合に出場し7ゴールをマークしチーム得点王となった。
JSL新人王の期待もかかったが、新人王のタイトルは井原正巳(日産、後の横浜マリノス)が受賞している。
この活躍が評価され、翌年には日本代表の横山謙三監督により日本代表に選出される。
1991年4月4日に国立競技場で開催されたロシアのスパルタク・モスクワとの親善試合でベンチ入りを果たすも出場機会はなく、このベンチ入りが最初で最後の代表選出となった。
1992年、Jリーグ開幕を前に浦和レッズへ移籍を表明する。
堀孝史のJリーグ入り後
1992年のヤマザキナビスコカップでは第1節ジェフ市原戦で尾崎加寿夫と交代で後半から出場し、浦和でのデビューを飾る。
第5節横浜フリューゲルス戦では兄の堀直人も出場しており、兄弟対決が実現。後半に堀孝史が決勝ゴールを決め2-1での勝利に貢献した。
この年は7試合に出場し2ゴールの成績をおさめた。
1993年、Jリーグが開幕。
第1節ガンバ大阪戦で柱谷幸一と交代で出場し、Jリーグデビュー。
しかしこの年の浦和は外国人選手の不調などで得点力不足が深刻であり、勝ちきれない試合が続いた。
当時は固定背番号制ではなかったため、試合によっては背番号10や7を背負い、FWやセンターハーフで起用されていたが、段々とポジションを下げていき、後にサイドハーフやボランチで起用されるようになった。
後にボランチとしてプレーすることが増えていき、ベテランの域になっても衰えない運動量と冷静な判断力から繰り出される長短のパスでチームを支えた。
1999年にベルマーレへ移籍。
加入1年目、ベルマーレではサイドバックの森山佳郎、元ルーマニア代表のバデアと共に最年長の32歳として若いチームを牽引した。
堀はリーグ戦全試合に出場し獅子奮迅の活躍を見せるもチームは30試合で4勝しかできずJ2に降格した。またベルマーレはメインスポンサーのフジタが経営再建のためスポンサーから撤退し、経営難に陥る事態となった。
2000年、ベルマーレは再建を図り、チーム名を「ベルマーレ平塚」から「湘南ベルマーレ」に改称。
堀はJ2降格後もベルマーレに残留。チームも加藤久を監督に、名古屋グランパスからGK伊藤裕二、元日本代表のMF前園真聖、アトランタオリンピック代表のDF白井博幸、松原良香などを獲得したが、8連敗するなど苦戦を強いられ8位に終わった。
2001年、リーグ戦33試合に出場するも、ベルマーレは昨年同様8位に終わりこの年限りで現役を引退した。
堀孝史の引退後と現在
堀は引退後の2002年、指導者としてベルマーレに残り、下部組織のコーチを務めた。
2005年からは古巣の浦和レッズでユースの監督やトップチームのコーチを務めた。
2008年には、山田直輝、高橋峻希、原口元気、岡本拓也を育成し、高円宮杯全日本ユースU-18選手権でユースを初優勝に導くなど手腕を発揮。
2017年7月からトップチームの監督を務めた際には、10年ぶりにアジア制覇へと導いた。
その後は東京ヴェルディの監督や、ベガルタ仙台のコーチを務めている。